見出し画像

生い立ち〜ヤンキー高卒業から上京〜

高校を卒業して晴れて俺も東京へ上京出来る。
そう思っていた。
しかし現実はそう甘くない。学生時代に貯めた貯金だけでは上京資金に程足りない。


1年程延期させて俺は地元で働いた。
車の免許を取るために高3の秋に全てのバイトを辞めてたけどその時バイトしてたレストランに頼み込んで出戻りで働かせてもらったのとシルバーアクセサリーの路面店のバイトを掛け持ちした。


当時山形の最低時給が610円とかだった中、700円の時給は高額な方だった。
けど掛け持ちしないと稼げなかった。
実家に生活費も少額ながら入れてたし働く場所が街中だったので毎日家から車で30分はかけて出勤してた。
ガソリン代も当時はリッター140円とかだったけど交通費の上限2万円じゃ全く足りない。
その分は自腹。
そんな環境の中、上京資金30万円を貯めるのに1年はかかった。


その間に何度か下見に東京に遊びには来ていた。
先に上京してる先輩や友達の家に世話になりながら不動産屋を回った。
まだネットで探すの主流ではなかった当時直接不動産屋に足を運んで色んな物件を見せて貰った。


【初めて組んだV系バンド】

地元では掛け持ちのバイトをしつつも少しでも音楽的な活動をしたいと思い、楽器屋、CD屋に行ってはメンバー募集の貼り紙を隅から隅まで見て回った。
ある日、新星堂の掲示板にヴィジュアル系のVoを探してる貼り紙を見つけた。
ヴォーカル以外、ギター2人、ベース、ドラムは揃ってる感じだった。
早速アポを取ってみた。
当時地元ではヴィジュアル系バンドがほぼ居なくて同年代のバンドは殆どがメロコアバンドだった。
だから珍しい募集だと思ったが年齢が俺より一回り以上、上だったので納得した。

つまりガチ世代の人達がまた青春時代を思い出してLUNA SEAやBUCK-TICKのコピバンを組みたいという感じだった。
それでもヴィジュアル系バンドが出来るならと前向きに連絡を入れた。
初顔合わせはドラムの人の家の近所に車で迎えに来て貰ってドラムの人の自宅の蔵を改装した手作りスタジオでのリハだった。
当時俺が18歳、他のメンバーは30半ばくらい。

着いて自己紹介をしつつ音合わせでLUNA SEAの曲を何曲かやった。
休憩がてら煙草を吸いに外に出た時、メンバーが「いやぁ〜良かった…どんな人が来るのかハラハラだった」というので理由を聞いてみると俺の前に候補で来た人がめちゃくちゃ下手くそな素人のおっさんだったらしい。
速攻でヴォーカルとして採用されてメンバー入りする事となった。

流石は当時から音楽をやり続けてるメンバー、演奏はそれぞれ上手かった。
リードポジションのギターはかつて東京でバンドをやってて挫折して地元に戻って来たらしい。
まだその名残というか、ロン毛に赤髪で1番ヴィジュアル系っぽい見た目だった。

何度かリハを重ね地元のライブBarみたいなとこでライブをやるようになっていた。
コピバンのはずが気付いたらオリジナル曲も出来ていて突然アー写を撮るとか言い出して撮影したり数回のライブだったけどいい経験にはなった。
最後は不甲斐ない終わり方だったけど。
ある日リハーサルに上手のギターが当日バックレをかました。
その日花火大会で道が混んでた為少し遅れてスタジオに行くと他のメンバーが集まって居てどこか気まずそうな雰囲気でロビーに座っていた。

「あれ?〇〇さんもまだっすか?」

そう訪ねると、あぁ今日なんか都合悪くなったらしいよ。
と答えた。
ぶっちゃけ遅刻もちょいちょいあったしパチンコばっかしてロクに仕事もしてない様な奴だったからそれくらいでは驚かなかった。
勿論心の中ではクソだなって思ってたけど俺が上京するまでのバンド、あまり気にはしなかった。

それからだんだんメンバーのモチベーションも下がりつつあった。
ドラムの奴は当時SNSでバンドをやってるってのをエサに若い子と繋がっては遊ぶってのに現を抜かしてたし上手のギターもそれ以来練習にも来なくなった。
そんな時に他のメンバーから告げられた。

ギターがリハをバックレたあの日、花火大会ってのもあってその他のメンバー3人で早めに集まって近くのジャスコに行ってたらしい。
その時に当日都合悪くなったってリハを休んだギターと俺の元カノが一緒に歩いてるのを見たという事だった。

元カノという表現はその時点では別れていたからで花火大会ら辺はまだ微妙な感じだったから。
それで当日メンバーが気まずい雰囲気でロビーに居た事に納得がいった。

正直元カノがどうとかはもうどうでも良かった。
けど単純にムカついたしいい歳こいた大人がメンバーに嘘まで付いて女と遊んでリハ飛ぶって事に納得がいかなかった。

メンバーには止められたが俺は速攻でそいつに連絡して鬼電を入れたが出ないから話があるから今から会おうとメールを送った。
するとスグにメールが返ってきてなんの事か悟ったのかいきなり謝罪と言い訳をしてきた。
俺も懲りずメールじゃ話になんねぇから今からどこどこに来い!!と返した。
高圧的な文で送ってしまったからなのか永遠と平謝りの文しか返って来ず仕舞いには会いたく無いと言ってきた。

俺は怒りを通り越して情けない大人の対応に呆れ果ててしまった。

それ以来そのバンドでの活動も無くなり結局半年くらいしか続かなかった。
まぁあれが人生で初めて出会ったクソバンドマンの典型的な例だったのかもな。
色んな意味で勉強と経験にはなった。


【希望の春】

それ以降はとにかくバイト漬けの日々だった。
レストランの厨房とシルバーアクセサリー屋の掛け持ち、日によってはレストランの仕事が終わってからシルバー屋で働いたりもした。
レストランは高校時代からバイトしてたとこに出戻りだったから店長も変わらずスタッフも当時のままで居心地も良かった。

シルバー屋は路面にワゴン出しての販売だったので基本は1人。
客なんて殆ど来ないし、来てもデート中の学生カップルや若い層のカップル。
よく売れたのがボディピアスとペアリングだった。
名前を彫るサービスもしてたので俺も技術を習得して指輪やネックレスに名前を彫っていた。

大型施設内の通路って事もあってよく友達や先輩なんかが遊びに来てた。
遊びに来たという冷やかしに来てた。
仕事中でもそいつらが来るとレジに鍵掛けてタバコ吸いに行ったりとかなり自由な感じだった。
その頃から具体的に住む地域や部屋を決める為
ちょくちょく東京に下見に行ってた。
先に上京してる先輩や同級生、親戚の家なんかにも世話になった。
結局、土地勘も無いし田舎もんの感覚で住むとこ決めたらロクなことにならない(当初原宿に住もうとしてた  笑)と言う事で親戚の家の近所に部屋を借りる事にした。

不動産屋も親戚の知り合いで1番安くて良さげな物件を紹介してくれた。
保証人やら収入やら色んな審査も上手いことやってくれた。
仕事も決まってない田舎ものがいきなり東京出てきて部屋借りるなんてなかなか審査が通らない。
そんな事も知らず出るつもりだったから親戚とその不動産屋には世話になった。

お陰で部屋も契約出来て上京の日取りも決まった。
1ルー厶、6畳で5万円の単身者専用物件。
駅まで8分くらい。
池袋まで電車で10分、快速に乗れば8分、最初にしてはまぁまぁの条件だった。
練馬区の氷川台、これが俺の東京初めての地。
年が明け、雪も溶け始めた春先の事だった。


引っ越しは親父がデカいハイエースかなんかを借りて来て部屋の荷物を積んで車で東京へ向かう事になった。
洋服やちょっとした家具、楽器類も当時はギター2本とアンプ類。
CDとコンポ、ブラウン管の小さいテレビ。
6畳の部屋に詰め込めるだけの荷物と初期費用で半分以上無くなったなけなしの6万円くらいから東京生活がスタートした。

設備はユニットバス、電熱機のコンロ、冷蔵庫、ホテルに備え付けてあるような超小型で冷凍室は無い。
冷蔵スペースの上の方に氷だけ冷やせるプレートが付いてるタイプ。
だもんで冷蔵庫としては使い物にならずせめて冷蔵庫だけでもと近所にあったリサイクルショップに行ってみたら単身用の中古の冷蔵庫が¥1,000で売っていた。
十分に使えて結局そっから5.6年くらいその冷蔵庫使ってた(笑)

洗濯機も最初は近所の親戚の家でやってもらってたけど叔父が休みの日に一緒にリサイクルショップを回って中古の1万円の洗濯機を買ってくれた。

仕事は適当に日雇いの仕事を派遣でやってその日暮らし出来ればいいやくらいで週3日くらいしか働いてなかった。
それ以外の日はスタジオやライブハウスの掲示板を見に行ったり、家の周辺を散策して土地勘を掴んだ。

先に上京してる先輩や同級生と毎日のように会ってたから寂しさは無かった。
初めての東京1人暮らし、浮かれて居たと思う。
ここから俺の東京物語が始まってゆく…笑

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?