東日本大震災
あれから10年の年月が経った
未だ行方不明の方が数多くいらっしゃる中で今の私が出来ることは
その日のことを伝えること
ただそれだけ
津波の脅威は経験していない私だけど
視点も地震というより介護福祉士としての視点だけど
ただ起きたことをダラダラと書くことしか出来ないけど
この中に何か一つでも伝わることがあるならと思い書き記す
2011.3.11(金)
私は仙台市泉区のとある病院のデイケアで介護福祉士として働いていた
そこは精神科の病院で入院・デイケアは重度認知症の方が対象であり、各病棟・デイケアに電子錠が取り付けてある
もちろん中からは暗証番号を入力しないと開けられないが外からは通常のドアと変わらずノブを捻るだけで開けられる(各階のスライドドアは別だが)
私の配属先であるデイケアのご利用者様は当然ながら毎日ご自宅もしくは他入所施設へ帰宅される
デイケアでは14:00〜15:00はレクリエーションの時間でその日もレクを行っていた
私は15:00より施設長にプランニングのチェックを行って頂く予定だったためレクには参加せずフロアで見守りを行いつつプランニングの確認作業をしていた
レクも終盤に差し掛かった14:46
突き上げるような揺れと長い横揺れ
すぐにご利用者様の元へ行き座っていて頂けるよう促す
はっきり言って怖かった
地震もだがご利用者様も
個人的にこの言葉は使わないようにしているのだがあえて使う
“不穏”
ご利用者様の不穏が心底怖かった
先に述べたようにご利用者様は重度の認知症の方々
帰宅願望や暴力行為は日常茶飯事
地震などあったらどんな動きになるのか不安だった
だからずっと声を掛け続けた
「大丈夫です」
「座っていてください」
と
私は多分ご利用者様を見くびっていた
病気だからと自分たちがなんとかしなければと思っていた
でも違った
元看護師長のご利用者様は現役に戻っていた
私たちと一緒に声を掛けて下さっていた
それだけじゃなく私たちにも
私たちスタッフは守るだけじゃなく守られた
そのご利用者様だけではない
50名程のご利用者様全員が混乱することなくある意味冷静に事態を把握しようとしていた
長い揺れがおさまった
気付いたときには電気が消えていた
先に述べたように入り口には電子錠
停電中は中からは開けることが出来ない
しかし開けっ放しはご利用者様が離設してしまう可能性が高いため難しい
スタッフは浴室窓から出入りした
そこから送迎準備(通常より早い時間から)
ただしご家族様への直接の引き渡し以外は危険なため独居の方は送迎車へも誘導せず施設待機(一泊)確定
ご家族様とお住まいでもご家族様がご高齢の場合はそのお子様へご連絡し引き渡しても良いかの確認をしたかったが電話が繋がらない
中にはご家族様もご一緒に施設へ来て頂き宿泊された方もいらっしゃる
もちろん送迎時ご家庭様がいらっしゃらない方も
その場合は他の方をお送りしてから再度ご自宅へ伺う
それでもいらっしゃらない場合は施設へ戻りなかなか繋がらない電話を掛け続ける
お迎えに来て頂けた方
車椅子の方だと自家用車では難しく再度お送りした方
どうしても連絡がつかず施設待機となった方がいらっしゃった
次はスタッフで誰が残るか
ご家庭がある方は帰って頂いた
私は当時一人暮らし
アパートは車で15分程の場所
ガソリンは半分程度
停電で部屋の状況も分からず帰る方が危険と判断し自ら泊まることを選んだ
施設待機となったご利用者様は併設されている他のデイのご利用者様と一緒に1番大きなホールへ
病院には自家発電の設備があったためご利用者様がいらっしゃるホールは明るく暖かかった
しかし自家発電で全施設はカバー出来ないため入所・入院のご利用者様は極力集められ居室ではなくフロアにて過ごされていた
ホールには数十台のベッドと直置きされた布団
車椅子のご利用者様がベッド優先
もちろんスタッフは布団すらないところで座ってご利用者様を見守り、必要に応じて介助を行う
食事はスタッフの分も病院で出してくれたと思う
だから危険な家に帰るよりスタッフも守られていた
泊まりのスタッフが交代で休憩を取る
外の空気を吸いたくて外に出る
雪がチラついていた
ふと空を見上げると今まで見た星空とは比べ物にならない程の綺麗な星空
息を飲むほど綺麗に輝いておりしばらく見とれた
多分あの星空は一生忘れない
人間の無力さ、自然の力・偉大さを痛感した
そこで緊急事態
月のものがきてしまった
同じく泊まりの同僚に貰うも足りずコンビニに行った
もちろんコンビニも停電しており床に置いたロウソクで照らしてくれていた
コンビニの棚はほとんど何もなかった
食品はもちろん他の棚も
でもなんとか残っており購入出来た
これはすごくラッキーだったと思う(ラス1かラス2くらいだった気がする)
休憩から戻ってご利用者様の介助をしたり交代で座ったまま仮眠をとったり
不安になるご利用者様とお話をしたり
バタバタしてその日の夜は過ぎていった
実家に連絡することすら忘れてた(しようとしても電話は繋がらなかったと思うが)
翌日だったかその翌日だったか…
なんとか配属部署のご利用者様は、独居でご家庭様がいらっしゃらない方以外ご家庭様への引き渡しが出来、スタッフも数名残して帰れることに(独居の方は入居施設もしくは後見人の方が…という流れだったと記憶しているが曖昧)
先に述べたように車で15分、ガソリンは半分なので何往復も出来ない、そして電気も水道も止まっているので1人は危険ということで残っているスタッフの中で比較的近い場所に住む後輩のお宅にお世話になることになった
ただ1度は確認しなければならず着替え等も必要ということで一旦アパートへ帰ることに
アパートへ帰ると想像よりは部屋は酷くなってはいなかった
1階の部屋というのもあるかもしれない
部屋で座ってやっとひと息つけた
まだ緊張状態は続いていたが
そこでようやく実家に電話が繋がる
実家も停電はあったようだが自家発電でなんとかなったと
実家の心配はなくなった
そこから少しふっ切れたように感じる
私はここで私に出来ることをやっていけばいいんだと
そのあと後輩のアパートまで行き数週間お世話になった
休みの日もあったが出勤出来るスタッフは数日交代で出勤(出勤したら2〜3日泊まりながら勤務してまた2〜3日休みという具合)
後輩と私は同じ日に出勤(ガソリンの消費を最低限にするため)
デイケアは最初のうちはお休みだったからデイケアスタッフは基本病棟のヘルプ(料理が得意な後輩は食堂のヘルプだった)
他部署だけでなく他事業所にヘルプに行くこともあった(併設の老健等)
そうしているうちに配属先の病院だけは水が出るようになった(独自の貯水槽があったため)
電気は点かないがガス・水は使えるから入浴も可能になり、病院ということもあり施設の破損も酷くなく、ご自宅での介護が難しい方が多いという理由でデイケア再開(当然他施設入所でデイケアご利用の方にはご遠慮頂いた)
それと同時に併設の老健の通所リハも再開
しかし併設の老健はまだ水道が使えないため入浴は配属先の病院のデイケアにて行うこととなった(人数の問題や水量の問題もあり週1でシャワーのみ)
病院では出るようになったと思っていたが実は1階にあるデイケアのみある程度水量が安定していて他の階の病棟では出たり出なかったりだったそう
デイケア再開にあたり電子錠は掛けられないためドアはずっとオープンな状態だった
ご利用者様の人数は普段よりずっと少ないがスタッフも少ない
帰宅願望によりドアへ向かうなんてことは日常茶飯事
ドアに向かうご利用者様に付き添いフロアへ戻って頂くその繰り返しだけで一日が終わることも多かった
その間後輩宅の水道は出たり出なかったりを繰り返しておりたまに出ると後輩宅でシャワーを浴び、出ない日が続くとご利用者様がご帰宅されたあとスタッフもデイケアでシャワーをという具合だった
電気は遠いところが「点いた」という話を聞きながらこちらはいつになるのかとずっと待っていた
後輩宅は比較的早めに戻った記憶だが我が家は電気も水道も全くだった(たまに荷物を取りに戻っていた)
徐々に近隣のお宅にも電気が戻り少しずつ明るさが戻りつつあった
向かいのお宅に戻ったときは次は病院も!と嬉しくなったがそこから数日戻らなかった
日付は分からない
必死だったから
でも電気が点いた瞬間は覚えている
近くにいた同僚とたまたま近くにいた顔見知り程度の栄養士さんと抱き合って喜んだ
みんなでその場で泣いた
溢れる涙が止まらなかった
それだけ嬉しかった
それだけ緊張状態が続いていた
そこからは色々なことがどんどん戻っていき勤務も泊まりの勤務ではなくなったりガソリンが入れられるようになったため私もアパートに戻ったりご利用者様も増えてきて日常の忙しさに戻った
でも後日
親友の実家が津波で流されたと聞いた
先輩のお父様が津波で亡くなったと聞いた
同僚の旦那様が津波で亡くなったと聞いた
就学前の2人の娘さんを旦那様を亡くしたばかりの同僚が1人で育てなくてはいけないと
私はたまたま津波の脅威がない場所にいただけ
たまたま仕事中で病院という頑丈な施設にいたから潰されなかっただけ
たまたま土砂崩れがなかっただけ
たまたま火事にならなかっただけ
たまたま
たまたま
色んなたまたまが重なり合って生き延びられただけ
これからもそのたまたまがあるとは限らない
私に限らず
全ての人に
だから
今出来ることを精一杯やって
備えられることは精一杯備えて
明日も生きていきたい
そして伝えていきたい
悲しい思いをする人が1人でも減るように
悲しい思いをした人の希望にほんの少しでもなるのなら
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