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危険を遠ざける社会ー安全が危険をつくる

【気付き】危険を遠ざける社会ー安全が危険をつくる

昨年末、娘の入院がした時、言葉にできない苦悩を体験した。でも、それがなければ僕は哲学者・西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の概念を理解することも、興味を持つこともなかったと思う。

絶対矛盾的自己同一。哲学らしい難解な表現だけど、このコンセプトは深い苦しみを経験した者にとってはすんなり受け入れられる。一見すると相反するような概念も、根底は共通するところから出現しているのであり、見方を変えると両者は同じである。そんな意味だ。

親しい人が死ぬとき、私たちは、その人の生を強く感じる。
不自由さの中にあるとき、人は自由をより強く実感できる。
弱き小さな子どもが、大人を動かす力を持つ。

絶対矛盾的自己同一という見方を手に入れると、世界を全く違ったように捉えることができる。

強くなろうとすると、弱くなる。
幸せを追い求めることは、不幸につながる。
効率を重視することは、結果的に非効率になる。

前置きがいつもながら、長くなってしまった。

西田の哲学(見方)で、子どもを取り巻く「安全」を考えたい。すると、こうなる。

危険を取り除くことは、安全を遠ざける。
危険をつくることは、安全を生み出す。

俄には、受け入れ難いコンセプトだと思う。でも実際、考えてみるとそんな可能性が見えてくる。

- 防潮堤が高く発達させると(安全にする)、地域住民の防災知識と意識は低下する(危険になる)。
- 子どもの火遊びを禁止すると(安全にする)、やがて火の怖さを知らない青少年が火事を起こす確率が上がる(危険になる)。
- 公園からジャングルジムを撤去し、木登りを禁止すると(安全にする)、子どものも身体機能が抑制されて転落事故が生じやすくなる(危険になる)。
- 抗菌・除菌グッズが普及すると(安全になる)、免疫機能は低下し、アレルギー疾患が増える(危険になる)。

もちろん、事実はこんなに単純ではないかも知れないし、データをとってみたら違う発見があるかも知れない。しかし、想像もできてしまう関係性だ。

僕が今懸念していることは、今の大人(社会)が、子ども達から、危険を過剰に遠ざけてしまっていないか、その結果、安全を学習する機会を奪っていないか、という点だ。

こんな話を聞いたことがある。ある学校で児童が給食カートを転倒させて、ご飯を床に飛散させてしまった。その場は急遽、給食室で米を炊き直して対処したが、その後、学校は、給食カートの運搬には担任教師が同伴するルールを導入したという。

確かに、これで給食カートは転倒しなくなったかも知れない。しかし、子ども達はこの対応で「安全」を具体的に学んだのだろうか。これはあくまで大人の都合で「面倒なことにならない」ための対応ではなかったか。

今、校庭のブランコの乗り方も、「低学年は立ち乗り禁止」などルールを定める学校もあると聞いた。危険を除去したい保護者の声に配慮したのかも知れない。子どものケガに対応する先生の負担を減らしたかったもかも知れない。問題は、「それは本当に子どもにとって安全教育になっているか」という視点だ。それが大人に問われていると思う。

NHK「ひとりでできるもん!」を監修した料理研究家・坂本廣子さんに『台所育児〜一歳から包丁を〜』がある。

「子どもに刃物なんて危ないというのは、大人の思い込みに過ぎないナァと思います。大人にもあるちょっとしたケガはそれがどうした!ちょっと指先の皮を切るくらいのことは、あって当たり前なのです。そんな小さな痛みを経験しているからこそ、刃物や火を扱うことに慎重になって、大ケガを防ぐことができるのではないでしょうか。」

強く納得する。この本に出会う前から、僕は2歳の娘に包丁を握らせてきた。彼女が欲するから。今では料理を一緒によくするが、もちろん過去に彼女は包丁で指を切ったことがある。畑にほうれん草を取りに行くと、「みーちゃんも!」と言う。手本を見せて、包丁を渡したが、まな板と違う、指を切った。

ところが、その時気づいたのは「切った」と言っても所詮、2歳児の力だ。大量に血が出るようなケガにはなり得ない。むしろ、もっと成長し、力がついた時に初めて包丁を手にした時の方が、危ないかもしれない。ここでも「危険をつくることは、安全を生み出す」。

地域社会が崩壊して、少子化と親の孤立化が進み、社会はどんどん子どもに対して過保護になっている気がする。しかし、それはむしろ子どもを無力化し危険に晒す社会に向けた努力なのかも知れない。

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