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育児はブリコラージュを磨く機会?!

育児は、レヴィ=ストロースが1960年代に提唱した「ブリコラージュ」という思考法を磨く機会になり得るかも知れない・・・。

ブリコラージュとは、「日曜大工」などと解釈される概念で、あり合わせのもので、非予定調和的に課題解決する思考能力のことです。レヴィ=ストロースはこれを近代的思考(=明確な目標があって、プランと部品があって、直線的に課題解決する能力)に対比して提起したものと考えられています。

よく引き合いに出されるのが、料理です。レシピ通りに材料を集め、レシピ通りに調理するのが近代的思考による料理。まさに予定調和です。

対して「今日の夕食、どうしようかな?」となって冷蔵庫を開けて、そこにある素材を使って、調理しながらその場その場で調整しながら料理するのが、ブリコラージュとしての料理です。

で、そのブリコラージュは、VUCAの時代に重要だ、とレヴィ=ストロースの時代から50年も経って改めて注目されていますね。ビジネス関係の記事によく取り上げられています。予定調和的な思考では、創造性は発揮されず、イノベーションは起きない、ブリコラージュという野生的・感覚的な思考が必要だと。

そして、実は育児は、ブリコラージュの感度を磨く機会になっている。

二つの出来事が重なって、そんな風に気づくことができました。

一つは、子どもたちの遊び方に接して。

僕は青空自主保育の子どもたちと関わっているのですが、そこでは基本的に遊具を使わず、自然の中で遊びます。活動場所は、毎日変わる。決められた遊びも、枠付けのある遊びもない。すると彼らは、自ら「そこにあるもの」で遊びを構成する。だから毎日、遊び方は変わるし、予定調和もない。それでいて、彼らは見事に楽しむのです。

彼らが作り出す見立て遊び(おままごと)は、本当にびっくりするほど洗練されています。そこら辺にあるスギの木の皮を裂いてラーメンに見立て、木片を揚げ物に、砂利とドングリでチャーハンを作ってしまうのです。


ブリコラージュは、そもそも後天的に学習するものというよりも、人間が本来持っている思考法と想定されています。レヴィ=ストロースは、文化人類学者で、現代でも狩猟採集生活を送っている民族を観察した結果、「野生の思考」としてブリコラージュを概念化したようです。

考えてみれば、社会化されていない子どもは、元来、野生的であって、彼らは自然とブリコラージュができてしまうのですね。パブロ・ピカソの名言「子どもは誰でも芸術家だ」ってそういうことか、と思わされます。

だから、青空自主保育の子どもと一緒に遊んでいると、「あり合わせのものでうまいことやる」という思考が自然と働くようになります。彼らから学ぶ形で。

もう一つは、日常的に料理をするようになったことが関係しています。育児を担うことは、家事を担うことと同義。「今日の夕飯、何にしようかな」が口癖になりました。たまに作る食事とは違って、文字通り毎日のことですから、その都度レシピ通りに調理などできません。

必然的に、「あり合わせのものでうまいことやる」しかなくなってきます。昨日は、冷蔵庫に、カブ、春菊、豚挽肉があったので、ごま油、生姜、酒、塩でさっと炒めました。それでそれなりの味わいになって妻も「美味しい」と言ってくれるのですが、返す言葉は「再現できないけどね」です。


ここがブリコラージュらしさ。絶えず変化しつつある状況の中で作っているので、同じ料理はできないんですね。ちなみに、「再現性」は、科学を成立させる重要概念ですね。それが明確には無い、というのが育児の中での食事作りです。

ということで、「子どもの見立て遊び」と「育児の中での食事作り」が最近、再注目されている「ブリコラージュ」という概念で括れることに気づいて、つらつらと書いてしまいました。

ーー育児はブリコラージュを磨くチャンス!!ーー

男性に育児・育休を推奨する、一つの口実として加えて良さそうです。

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