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人間宣言feat志磨遼平

ときに、これ読んでくれてる諸君。

毛皮のマリーズなどはお好きですか?

単刀直入に言おう。

僕は大好きです!!
毛皮のマリーズは僕の宗教です!!

しかしマリーズが宗教なのはよくても、志磨遼平という一人の人間への信仰は非常に危険だと思う。

順を追って説明するね☆

まず僕はドレスコーズ(志磨の現活動)より先に毛皮のマリーズ(志磨の旧バンド)を知って、本当にすっごく大好きになったんだけど、そのときはまだ自分でギター弾いたりもほとんどしてなかったから映像ではフロントマンにしか目がいかなかった。

だから毛皮のマリーズ=志磨遼平だったし、この人が正義だと思ってたからこの辺りは志磨を信仰してたと言っていいと思う。

そんでユーチューブ漁ったりDVD買ったりして、ぼくの中では確固たる志磨遼平へのイメージが作られたわけです。

その後ドレスコーズも少しずつ聴き始めて、問題の贅沢とユーモアのMVを見たんだよね。これなんだけど、このMV最初に、志磨が一緒に演奏する人たちにお願いしますって挨拶をするんだ。

そんなの数秒なんだけど、それでもえ、っ?となるくらいにはそれが人当たりの良さ全開な挨拶だったことをここで強調しておこう、!

毛皮のマリーズの、畏怖で誰も近づけないような志磨しか知らなかった僕はすごい、すごいびっくりして、そのギャップはなかなかショックではあったんだけどまあ一旦落ち着こう。

もしかしたらこの撮影のときの志磨はものすごくごきげんだったのかもしれない。それにロックスターにだって礼儀は必要だよな、と思い直して。ステージでは中指立てても裏ではちゃんと挨拶するのも大切なのかもな、と。

気を取り直して、今までドレスコーズの志磨に関してはライブ映像やMVばかり見てきたから、見てこなかったインタビュー動画なんかも見てみたら、どの動画でもまあ見事に気さくで柔らかい話し方をされておられましたッッッと☆

もう一度言うけどこれだいぶショッキングな出来事で、具体的にこの動画のここが!とかあるはあるんだけどそんなこと言っても仕方ないから、それはやめとこう。

そんな感じで、信じてたものが、というか自分の中で勝手に作り上げて信じてた志磨遼平という偶像がこわれて、どうするべきかふわふわしてた時「神格化も蔑みも紙一重」みたいな内容の文を目にしたんだ。その人を人として扱ってないという面ではおなじ、みたいな内容だったんだけどこれにも相当ショックを受けた。

ぼくが志磨に対してしてたのは神格化で、それは彼を人として認めてないってことでもあったのか。天皇も人間でいられる世界で、ぼくはなんてことをしてしまっていたんだ、と。いくらロックスターでペテン師で、あるいはほんとはクズだったとしても、彼がひとりの人間であるってことを否定しちゃいけないよな。

それをぼくは贅沢とユーモアの数秒をきっかけに知ったのです、。もしこの時点でちゃんと自分の中で折り合いをつけられていなければこじらせ過ぎで、志磨がポール・マッカートニーを称賛するたびに、セブンのミートスパゲティの話をするたびに、(要は彼が一人のロック愛好家であり人間であるということを思い知らされるたびに)コメ欄にあらわれる厄介オタになっていたのかもしれない、、。おそろしや、。

この出来事以降、ボクは志磨じゃなくて毛皮のマリーズを崇めるようになった、というか、基本的におれが信じるものはロックンロールなんです。

だから例えるなら教祖を鞍替えしたってことかな。

※これ完全教祖マニュアル(真面目な新書です)を読むとすごいわかりやすいと思う。


ボクは君たちに言いたい。誰かひとりの生きた人間を、神格化するのはこの際やめようじゃないか。  

志磨遼平とすべてのバンドマンに対して、あるいはひょんなことから誰かに軽率に神格化されてしまったすべての人間に対して、僕は今ここで人間宣言をだすことにする。

その代わりにね、僕らはバンドを信じることにしよう。バンドというのは実態があるようでいて、ない。結局のところ概念でしかないから、メンバー全員生きてたって解散するといえば解散だし。メンバー全員入れ替わったってそれがドールズだといえばドールズなわけだし。

バンドが概念である以上、実態がないんだから正解もない。例えば僕にとってのマリーズは、ロックンロールで以て理不尽を追い払ってくれる正義のヒーローだけど、君にとっては自己中人間のわがままな叫びでしかないのかもしれない。概念というのは僕らのそういう認識や思い込みでできてるのだ。

けれど志磨遼平という人間がどんなやつなのかというところには一応の正解があるし、それと僕らが思う彼への印象がかけ離れていることはたぶんすごいストレスなんだと思う。(川本真琴はそれが辛かったと言ってた→https://www.cdjournal.com/i/cdjpush/kawamoto-makoto/1000001249)

実在の人間をやたらと神格化することは、先にも書いたようにその人を人として認めてないってことでもあるから危ないことだしね。

それで誰かが苦しい思いをするかもしれないなんて嫌じゃないか。ロックは誰かを傷つけるものであってはいけない。

絶対にそうであってはならない。

だから僕らの熱い思いをぶつけるのはフロントマンやらギタリストやらひとりの生きた人間ではなくて、バンドという、僕らと彼らで作り上げる概念にしようではないか!

それにね、さらっと書いたけど、一人の人間を信じてるつもりでも実際は、そのフロントマンやギタリストがこんな人だったらいいな、きっとこんなことをするだろうな、っていう僕らの夢と希望が集まって作られた偶像を信じてるに過ぎないのだ。そういう理想を一人に押しつけて、それを信じてるだけなのだ。

ボクがやってたのもたぶんそういうことだしね。

そしてこんなこと言ってる以上、もちろんぼくは道端でぶらつく志磨遼平を見かけたとしても絶対に熱い視線を送ったりしないし、ましてや声をかけたりなどしない。

だって志磨遼平という人そのものは、ただの!ただの人間だから。
そのことを僕は理解しているつもりなのだ。

けどね、もし本当にそんなことがあったとしたら、かつて毛皮のマリーズのメンバーだった一人の人間として少し長めに見つめてしまうくらいは許せ。

そしてその後はすました顔して、
心のなかではロリポップをエンドレスで再生しよう。


バンドっていうのは、僕たちが作り信じることのできる、一番小さな宗教です。

なんて、寺山修司を気取ってみる。


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