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「この場所」であること

2020年初めての展覧会鑑賞は、東京都現代美術館でした。

「ダムタイプ|アクション+リフレクション」
「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」
「MOTアニュアル2019 Echo after Echo:仮の声、新しい影」
「MOTコレクション 第3期 いまーかつて 複数のパースペクティブ」

展示自体の感想を、常設展以外をひと言づつ。

ダムタイプは、彼らの活動やその時代背景、要するに「文脈」といわれるものをある程度把握していないと、おもしろがりづらい展示だったなと思った。僕はほぼダムタイプのことを知らなかったこともあってだと思うけど、「やっぱダムタイプすごいなあ!!!」というところまではなれなかった。それでも映像、演劇、音楽などなどを超越して美術にトライしているのは、知らなくてもワクワクするところがあった。

ミナペルホネンの展示は、本当に丁寧に作られている展示だった。ほとんどミナペルホネンを知ってる人がいくのだろうけど、知らない人が訪れてもきっとその世界を好きになれるだろうし、皆川さん含めて作り手の頭の中を、受け手に届けようという思いが端々から感じられるいい展示だった。ミナペルホネンが、ファッションブランドを飛び越えようとしているような試みも、とっても興味深かった。

個人的にもっとも好きだったMOTアニュアル。新進作家たちの展示。全作品全てが好きだった訳ではないけど、THE COPY TRAVELERSの作品はすごく愉快だった。加納俊輔、迫鉄平、上田良の3人のアーティストユニット。写真とか、映像とか、スキャンとか、無限にある選択肢の中からたったひとつを選びとって、それがかつ「複製」されて残る。写真や映像の意味というか、価値ってどこにあるのかをぐるぐる考えさせられた。とってもおもしろかった。

と、ひとことと言いながらつらつら書いたのだけど、今日書こうと思ったのは、展示の場所性について。ミナペルホネンの展示は、本当に素晴らしくよくできた、楽しい展示だったのだけど、ふと「現代美術館」で行われる意味って何だろうと思ったのです。
都現美は、「現代美術」を展示する場所として受け取られると思った時に、ミナペルホネンがその「現代美術」という流れの中で解釈されて、見る側に提示されているべきじゃないの?と思ったら、全くそういう要素がなかったわけではないんだけれど、もっともっとそういう要素が入っていてもよかったなあと。国立新美とかでやっていてもおかしくない展示内容だったなあと。

現代美術って、思考の発見と驚きがあるものがいい作品のような気がしていて、美術館には少なからず自分の中に芽生えるそういう感情を楽しみにして行く(少なくとも僕は)。「現代美術館」に行ったのだから、ミナペルホネンというものを通して、そういう現代美術的なアプローチがされて、発見と驚きを期待していったのだけど、そこの部分が少し少なかったかな?という印象を持ったのです。いや、これは単純に僕にその読み解く力がなかっただけなのかもしれないけれど。

そんなことをぼんやり考えたときに、「場所」というものに対して、以前より敏感になっているのかもしれないなとも思った。千葉市美術館での「非常にはっきりとわからない」が、美術館という場所でやりつつ、あの場所、あのタイミングでしかできない展示だったことにとても衝撃を受けたのだけど、なんだかそういう「この場所」「このタイミング」でしかできない経験を、求めることが増えているのかもしれない。それが時代的なものなのか、個人的なものなのか、もう少し時間をかけて掘り下げてみたいと思いまする。

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