裏と表
「うちの学校の生徒は表裏があるんですよ」と、不安そうに答える小学校の先生の声を仕事で聞いた。
表立ってはいい顔をして、陰で悪口を言ったりするらしい。小学生であれば、たしかに不安になるだろう。
「表の部分が大きくなっていくといいですね」と、そこに居合わせた誰かが言い放ち、その場にいた全員が屈託無くそれに賛同していた。
そういう意識に、胸のつかえを感じる。
表と裏は、ない方ないいのか。
表の方が大きければ「良い子」なのか。
そもそも裏と表で語れるほど簡単なものなのか。
自分に子どもがいたとして、陰で悪口を言うような「裏表がある」ことに気付いたら、きっとそうではなくなることを願って、何かしらメッセージを伝えるだろう。
でも、何と言うだろう?
・・・
noteで書いている文章を、ぼくは会社の人に、家族に、妻に進んで見せることはしていない。
だとしたらここで書かれた言葉は、読んでない人にとっては「裏」側なのかもしれない。自分はそう思っていなかったとしても。
誰がどの位置から見るかで裏や表と認識されるかが変わる。
平野啓一郎さんの「分人主義」のように、接するグループや相手ごとの自分がいて、中心や「ほんとうの自分」なんてものはない。「仮面」なんてきっと存在しない。
だとしたら簡単に裏表で人を語ったり、表側であるべき、というのはあまり気持ちの良いことではないなと思った。
人はもっと多様だ。きっと裏表で語る人たちもわかってはいるのだろうけど、みんなわかりやすい言葉で語りすぎている。そこに、やっぱり違和感を感じるのです。
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