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死の意識への扉

こわいこわい。年始から本当に世界は大変なことになっている。アメリカとイランのニュースをみて、自分でいくつか記事を探して今までの関係性とかも調べて、おお、世界はこんなひどいことになってんのか知らなかった、それにしてもトランプはめちゃくちゃだなやっぱり日本は平和だ。と思った時点で、本当に「こわい」とは思っていない自分に気付く。本当の本当にこわいとは思っていない。

「死」を意識することって本当になくて、国も年齢も環境も思想も、まだまだ「死」からは遠い距離にある。明日訪れるかもしれないそれは、自分にとって関係ないものと思っている。

病気、事故、寿命。死って、疑いようもなく距離が少しずつ近づいてくるものではあるけど、自分からぐいっと近づくことってほとんどできるものではない。ましてや「人生百年時代」なんてわけのわからん標語が詠唱されて、死がどんどん遠くならざるを得ない世の中だ。少なくとも日本は。

僕だって今まで全然意識なんてしていなかったし、遠いものだと思っていたけど、最近いくつか「死」を意識する本を読んで、今の自分には距離の取りづらい死について考えを巡らせるきっかけになった。考えを巡らせるといっても、大した考えじゃないけれど、「死」って「生」の延長というか、裏表なんだよな、という当たり前のことを意識し直したというだけだけど。

その昔、死者は村の中心に葬られたのだと、折口信夫の本で読んだ。本当にうっすらとした記憶しかないけど、「死と生が地続きだった」ことにとても感心したことを覚えている(読み返したい)。死を意識することって、生きる上で重要なことなんだろうな、と答えも持たず曖昧なまま思う。

でもたぶん、死を意識させるものって、今の僕には「本」しかなくて、中東のニュースをみても、今回みたいにきっかけにはなるかもしれないけど、あまり切実ではないような気がしている(もちろん、無関心という意味ではなくて)。今まで意識をしてこなかった「死」というものを、生きるために向き合いたいと、ニュースとか本とかをみながらぼんやり思ったのでした。読書をしながら、感じた「死」は、もっと具体的に書いていきたい。

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