玄奘西へ行く9

世界の果てまで行ったはずがそこは釈迦の掌の中だったと言う奇想天外なくだりが大好きだ。どうせ嘘をつくならこれくらいが愉快である。とにかく中国人のつく嘘はスケールがでかい。十万八里を一っ飛びだとか、白髪三千丈だとか、中国三千年の歴史だとか、まあ歴史は多分本当にそうだからいいとして適当にでかい数字を当てはめる傾向がある。日本も百万馬力だとか訳のわからない表現があるが、あ、馬力って単位凄いですよね?馬によって能力違うのに百万倍もしたらとてつもない誤差が…
まあとにかく中国人の奇想のスケールは日本人のそれとは格が違う。浦島太郎が亀に乗って竜宮城に行くのも基本的プロットは西遊記に全て含まれている。天界と地上の時間の流れが違うのも西遊記と一緒だ。桃太郎だって桃と猿とはつまり孫悟空を連想させる。天女の羽衣を奪う話も西遊記にある。天竺の姫が実は兎で月に帰ると言う話もあるのだ。
とにかく訳のわからない出鱈目な話を作らせたら中国人の右に出るものはとりあえず東洋にはいない。日本のお伽話の多くはこれら中国の出鱈目話を元に島国に合うように嘘の度合いを小さくしたのに違いない。浦島太郎が竜宮から戻ると地上では数十年の年月が経過していて絶望に終わるがこの猿は五百年だ。
五百年もの間この猿は岩に閉じ込められて何をしていたのだろう?
放射能汚染を封印するため毎日溶けて真っ赤になった鉛の粥と鉄の団子を食わされていたと言う。
それを任された土地神はその当初こそ丁寧にこの荒ぶる猿に接していたがそのうち猿をぞんざいに扱うようになった。洞窟の奥で頭だけつき出し、会えばかならず釈迦牟尼への罵詈雑言を並べたて、頭の上の札を取れと強要し、最後はおいおい泣き喚く猿にはとことん辟易した。
そのうち洞窟の奥で頭だけ突き出した哀れな猿を一日一回からかうことがこの貧しい土地の呪縛神が味わう唯一の娯楽ともなっていったのであった。
よくやったのは、猿の目の前で食い切れぬ果物を山のように並べそして食い切れぬ故どうしようか?思案するという遊びだ。ひどいいじめだがこれにより土地神の気分はいささか晴れた。。その他にも目の前で将棋を打ったり、つがいの猿に交尾させたり、なにしろ五百年である、考えられうるありとあらゆる悪戯をこの猿の頭に行った。
これが釈迦牟尼の課した修行だろうか?五百年もの間この無能な土地神のいじめを受け続ける事が仏門に帰依する事なのだろうか?あるいは天界を荒らした罰がこんなくだらない鬱憤ばらしの餌食になる事なのだろうか?とまで考える事を猿はしない。

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