玄奘西へ行く5

原作で玄奘が最初に出会う妖怪は孫悟空だが順番を変える。西遊記は明の時代に完成したと伝わるがその原型は唐代に既に姿を見せていて最初に玄奘の旅を助けるのは沙悟浄なのである。タクラマカン砂漠を渡る玄奘が水不足に悩んでいた時突然現れた巨人がオアシスの場所に導いたと言う。深沙大将と呼ばれる観世音菩薩の化身だ。それが時代と共に沙悟浄に進化したと考えられる。沙悟浄は水の妖怪とされていて日本では河童の姿に描かれるが、これは沙悟浄が棲む流沙河を河と勘違いたためだと考えられている。
流沙河は砂漠の事だ。
中国では砂漠にダムを作り水を流しコレがかの有名な流沙河です!とやって観光客を集めているらしい。そう言えば山形の山寺にも、これがかの有名な、静かさや岩に染み入る蝉の声の声が染み込んだ岩です!と看板が立っているから人の考える事はとやかく言えない。
現代においては解釈はまちまちで水の妖怪な時も(だが一行の仲間になってその水中属性を役立てる描写は無い。)あるし砂漠の妖怪として登場することもある。
ワシの沙悟浄は砂漠の妖怪とする事に決めた。
はっきり言って沙悟浄のインパクトはいつも弱い。常に脇役の立ち位置に甘んじていて主役を張る話も無い。性格も特に掘り下げられることもなければ悟空や八戒の様に何か問題を起こす様な行動をすることもない。つまらんやつだ。
日本では中島敦さんが沙悟浄を主人公に西遊記を書こうとして志半ばに亡くなった。草稿を二話ほど読むことができる。斬新な発想だ。
この発想はいただきでワシも悟浄が主役とまではいかないが道中常に重要な行動をする様設定したい。
西遊記が飽きる原因の一つは悟空がでしゃばりすぎることだ。妖怪三人の完全にボスで、あれこれ二人に指示を出し、ピンチの時には天界までひとっ飛びして神々に助けを求め、普段ならば食い物を探しにあちこち飛び回り、異国に辿り着けばそこの大王と交渉する。全て一人で取り仕切るのだ。
主人公だから仕方ないのだが一応四人でパーティを組んでいる訳だからもう少し他のキャラクターにも活躍の場所を譲ってもいいと思う。
だからワシは悟空の能力を削る事にした。彼は超能力を持った猿であるが所詮猿なのであって思慮深さでは人間には敵わない。
沙悟浄は妖怪に成り果てたが元は人間であった。その生い立ちははるか昔の事なので詳しくは知らない。蓬萊山にて仙人の修行をしたらしいが度重なる不運が重なり神々への昇格の道は閉ざされた様だ。七日に一回腹を引き裂かれる様な痛みが襲いその苦しみの為大暴れをして人生のチャンスの全てを台無しにしたとも伝わる。

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