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2022年3月31日
午前10:05

祖母が永眠した。103歳。

僕の祖父が亡くなったのが2005年のこと。
なので、17年も祖父に代って、僕らと関係性を持ち、生きてくれた。

祖父も祖母も、大きなストーリーのある人生。
僕が本人達から聞いた限り。

祖父は自分が小さい時に、実の母が家から出て行った。祖父には何も告げずに。

原因は曾祖父が祖父の母とは別に連れ合いを作ったこと。

祖母が言うには、遊郭の様なものが近くにあり、そこで曾祖父が別の連れ合いを作ったことで、祖父の母は出て行った。

曾祖父が勝手に迎えた曾祖母が、僕が生まれた時に家にいたその人だった。

祖父は僕にこう話した。
「なんで、うら(自分のこと)を置いたまま、黙って出て行ったのか。」
「連れて行ってはくれなかったのか。」と。

また曾祖父は、町会議員をしていた。
そのためなのかなんなのか、広大な田畑を代々耕作してきた我が一族のそれを、祖父が託され、曽祖父ではなく祖父がそこを担っていた。

そのため、勉強も好きだったしよくできた祖父は、曾祖父の命令にて、中卒までしか学業はさせて貰えず、中学の先生が進学を推薦しに曾祖父に頼みに来るほどだったが、曾祖父が認めなかったこと。

祖父は腕っ節も強く、代々の地元の名士になっていた吾が家系の名声もあり、いじめられていた子の相談役もしていた、と。

ただ、曾祖父の非倫理的・非人道的な行動もあり、祖父が青年・壮年となる頃には、うちの家系は鬼の家と他から噂されるようになり、祖父の嫁はなかなか見つからなかったと。

でも、実母が物心つかないうちに出て行った体験を痛切に味わい、学業したくとも働かざるを得ず、鬼の家と恐れられ、嫁もなかなか来ず。

そんな中で育った祖父は、孫の僕が胸を張って背筋伸ばして言えるほど、類稀なる優しさと、人の痛みをわかり、支えようとする逞しさと愛を兼ね備え、質素倹約と質実剛健を併せ持った龍のような人だった。

そんな祖父だったので、家がどう言われていようと、嫁さんが来た。

しかも、その当時、歩いて越えるのに1日かかる山を越えた向こう側から。

それが祖母だった。

祖母は多人数の兄弟姉妹に囲まれ、温かい家庭で祖父に出会うまでを過ごした。

祖母曰く、「兄弟姉妹と競争の様にご飯を食べた。^_^」と。

祖父と祖母が出会ってから、第二次世界大戦が始まった。

赤紙が祖父の元にも来て、祖父も徴兵された。

だから、出会ってはおり、結婚するつもりだったけれど、その間には戦争があった。

祖父は徴兵され、九州の方に行ったと聞いた。
ここでも、いじめられている奴の代わりに、色々と肩代わりをした話をしていた。
こういう話をする時、傲りもしない様子の祖父は、逞しく健全な心身だったのだと思う。
その話に嫌味はなかった。いつも朗らかにこの話をしてくれた。

爆弾を抱いて、戦車の下に潜り込む訓練をしていた。
竹槍などの訓練もあった。
と聞かされた。

生きていてくれてよかった。
戦争が終わり、地元に帰ってきた後に、祖母を迎えに行き、籍を入れた。

新婚旅行かははっきり知らないが、伊勢の夫婦岩前で、軍服の祖父と浴衣なのか着物姿の祖母が2人で立っている写真を見たことがある。

祖母は祖母で、戦時中にB-29が田畑の耕作中に上空をかすめたことを話してくれた。

恐ろしさだけが全面にでたような話ではなく、それが当たり前だったというような話だった。

祖母は温かく健全で愛情のある家庭に育ったこともあり、祖父の寂しさに逞しく寄り添えた。

だからかはわからないが、曾祖母が実の子ではない祖父を可愛がらず、実の子ばかり(祖父とは母違いの子)可愛がる様子をよく観ていた。

わたしには、「曾祖母は実の子ばかりを可愛がった。お年玉をやるのにも、実の子にはやるのに、祖父にはそのようなことをしなかった。」というような話をしてくれた。

その時の祖母は祖父に同情し、曽祖母の非情さを、孫の僕に伝えたかったのであろうと思う。

祖母は僕にしかしなかったであろう話もしてくれた。「誰にも言うなよ(※今から言う話を元に誰かを責めるなよ)。」という前振りのある話が、それにあたる。

祖母は自分が見て来た家族の黒い歴史を僕に伝えてくれた。

その中で、お金を貯めるには、欲しいと思った魚ではなく、一番安い魚を買うくらいしないと貯まらないよとか、生活の術も話してくれた。

長男としての僕を祖父の代に沿うように、立派に育てようとしてくれていた。

周りから見たら、僕はとても大事に育てられている感があったと感じる。
妹からはいつも兄ちゃんばかり言われ、泣かれたこともあった。
その当時の僕には祖母の育て方や、妹の持った感情については、どうしていいのかわからないままだった。

祖父母はとても逞しかった。
だから、祖父母共に長生きしてくれた。

晩年、父が起業し、経営していた酒屋がうまく行かなくなった。
一念発起したにも関わらず、酒税法は改正され、お酒はどこでも売り買いできるようになった。
またビルを建てたら、すぐにバブルが弾け、多額の借金を背負わざるを得なくなった。

世の中をどう読めばいいのか?
誰がこの世の中をコントロールしているのか?
僕には今でもそこに何クソという求心力が残っている。

祖母がコツコツ貯めて来たであろうお金にも手をつけなくては一家を守れない父の選択も余談を許さなかった。

祖母は僕には、「今日も〇〇(僕の父)が自分(祖母)の貯金を崩すしかなくなったと話をしに来た。」「もうお金はない。」と嘆きたいような傾向の話をした。
でも、嘆くまでは至っていなかった。
ここが祖母の逞しさと愛情だなと今、真に心から思う。

実家が無くなってしまう時も、祖母は耐えた。というより跳ね返したように思う。
今こうして振り返れば、祖父よりも強い心身の人だったのかも知れない。

ただ、やはり苦難は苦難を生んだ。

僕が祖母にできなかったことは、自宅で生活を生涯全うさせてあげられなかったこと。

祖母が望んでいたような、特養から家に帰るという調整を整えられなかったこと。

そもそも、父母が一念発起し、僕や妹達のために自営業と農業の兼業を志したにも関わらず、それを何もサポートすることも適わなかったこと。

僕が中小企業診断士に興味があるのは、この名残惜しさから。

話は脱線したが、祖母の逞しさに最後まで甘え、僕らは守って貰った。

だから僕は祖母の孫であることを泣かずにはいられない。

ごめんな。僕がもう少しできたら。
僕があなたの希望をどうにか叶えることができたのなら。

だからもう、これからは、僕が何かを成し遂げられるよう。

それは他者の期待に応えることではないかも知れない。

自分が成し得ることができなかった自分の内にある燃える点を。

祖母にできなかったことも、できるようになりたい。

祖父にできなかったことも。

僕は祖父も祖母も大好きです。

いつまでも、想っています。

あなたは今、私の中にいます。

ありがとう。

戒名に、祖父は龍。祖母は月。
龍と月。

僕だけでなく、お寺さんからも立派に生きたと思われていると感じる。

だから僕は何気に月を見る。
家族と。

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