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観光と信仰の狭間 ~2024年GWを振り返る~

今年は暦の巡り合わせもよく、大きく連休を取ることができた。後半に人と会う約束が多かったため、前半に恒例の旅に出ることにした。
今年の行先は紀伊半島。いつか行きたいと思っていた吉野と高野山を巡り、かつ14年ぶり二度目の熊野詣を組み込むという強行日程を組んだ。
世に「三熊野七伊勢(みくまのなないせ)」と言い、どちらが欠けても片参りとされる。今回を含め人生で熊野に二度、伊勢には五度詣でている。順調に行けば片参りのまま人生を終えることはなさそうだ。

旅先での訪問地

概ねX(Twitter)に上げていたのでそちらを参照されたい。一部割愛したところもあるが、概ねこの通りである。

吉野:金峯山寺、吉水神社、金峯神社
辨天宗如意寺
高野山:壇上伽藍、金剛峯寺、奥の院・弘法大師御廟
立里荒神社、熊野本宮大社、大斎原、玉置神社、天爽会、アドベンチャーワールド(パンダ)、和歌浦天満宮、ほんみち泉南支部
見事にパンダ以外すべて宗教施設を回る旅となった。いや、信仰という意味ではパンダも同じカテゴリーに入れるべきだろうか。

裾野の広がりと濃度の差

GW狭間の平日ということもあり、どこも酷い混雑ということはなかった。それゆえに訪れた人の濃淡が浮き彫りになり、行く先々で信仰とは何かを考えるきっかけにもなった。

一般に、観光地であればあるほど人は多く、人が多いということは裾野が広いということになる。
今回廻った寺社の多くはいわゆる観光地の「一軍」ではなく、吉野 < 高野山 < 熊野に行くにつれて観光客の層は厚くなっていった。とりわけ熊野の世界遺産登録の効果は大きく、道中最も多くの外国人観光客(中でも西洋系が多かった)に出会った。それを押してなお、和歌山のアドベンチャーワールド(とそれに伴うとれとれ市場)においては若者や家族連れが多く、訪問者の幅の広さを実感した。

幅広い層が来るほどに濃度は薄くなり、興味本位で来る人も多くなる。永続的にその場が存在するためには「新しい風」を入れなければならないが、誰しも最初は初心者である。
初心者が「また来よう」と思ってこそ次につながり、拡大してゆく。

全てのジャンルはマニアが潰す

新日本プロレスの親会社であるブシロードの木谷高明会長は2022年にこう述べた。これはプロレスファンの間で物議を醸しつつも、極めて的を射た表現であると思う。何もプロレスに限ったことではなく、まさに「全てのジャンルは」なのである。
新規を取り込まなければその場は長期的な衰退を辿るのみである。それでもなお、自らが居心地の良かった場が、暗黙の了解を知らない新規が来ることによって乱されてゆく。その葛藤に打ち勝ち、持続的発展を遂げるには何が良いのか。その答えは未だ見つからない。

理想郷に見えたもの

旅の道中は何もこんな悲観的な思いをずっと抱えていたわけではない。旅の前日に見た光景があまりにも理想郷に見えてしまったからでもある。
ぽっかりと空いた一日の空白を利用し、前々から行きたいと思っていた霊波之光教会に参拝した。

場所は千葉県野田市。「天使閣」と呼ばれるお城のような建物と、敷地内にあるドムドムバーガーが有名な宗教団体である。同じく千葉県にある宗教団体は以前に妙智會を訪れたことがある。そこは一般の参拝を受け付けていなかったために、ストゥーパのような建物だけを見て帰ってきた。
霊波之光についても同じくらいの規模かと思ったが、全くそんなことはなかった。駅から歩くうちに信者と思しき人が続々と聖地に向かい、門をくぐると信者さんが着る白衣を纏った人が数多くいた。休日とはいえ想定外の人の多さに面くらいつつも礼拝堂に行きお参りを済ませる。
その後帰ろうとした際に、間もなく正午の礼拝が始まるとのアナウンスがあったためにもう暫く居ることにした。

統一感のある動きの心地よさ

その際、巫女装束を纏った人が何かを大事そうに抱えてプラザ館の方から例拝殿へ向かって歩いてきた。取り立てて号令がかかるわけでもなく、誰もが歩を止めて手を合わせ、その様を見守っていた。
共通言語を持つ集団はかくも統率が取れているのかと感動を覚えた。長く宗教施設に足を運んでいるが、これほどの光景を見たのは数えるほどしかなく、改めて教団の規模の大きさを感じた。

広く国民に浸透している寺社仏閣であればこうした事象は発生しない。正直なところ、全員の足が止まり会話もなくなるというのは8月の靖国神社における天皇陛下の御言葉の時くらいではなかろうか。それですら陛下の御言葉あってのものであり、ただ人が歩くだけで(その巫女様がどれ程の地位にあるのかは存じ上げないが)全ての人が止まるという現象はなかなか見られたものではない。

その後、正午の礼拝が始まり、地区長の講和に続いて皆でお祈り(結合の祈り)を唱えた。暗誦する人、手許の誓訓を見て唱える人、そして正面横のモニターにも写されるため、誰もが祈りの言葉を唱えられる環境が整っていた。
黒住教の朝拝に臨席させてもらった際もその祝詞の美しさに心を打たれた。今回の祈りは参加者の数も多く、より感じ入るところがあった。

同志は増やすべきなのか

少子化の波はどの分野にも及び、事業や場の継続という課題はあらゆるところで見受けられる。現在の王道とされるのは上述の木谷会長の言う「マニア」を薄めることだろう。それは新規の参入障壁を低くすることに寄与する。
霊波之光においてはどうだろうか。宗教団体の場合は少し勝手が違う面もある。いわゆる「宗教2世問題」もあったように、信者同士の結婚とその子を生まれながらにして入信させるという方法である。
しかしながらその手も統一教会をはじめ多くの事例が示したように、すべて上手くいくものではない。
ざっと見た限りではあるが、霊波之光に来ていた人は比較的若い人「も」多かったように見えた。一度見たきりであり、信者数の増減を追っているわけではないので確かなことは言えないが、先の地区長の講話に少しヒントがあるような気がする。

信者ではない夫と結婚し、子を授けた家族の話。子ども二人は教団のマーチングバンドに所属することになり、練習の様子を家で話すこともあった。楽しそうに話す子の様子を見て、ついに夫が「今度観に行こうか」と妻を誘い、それをきっかけに御神域にも行くようになった。

よくある話ではあるが、非常に現代的価値観に即した内容と言える。かつての「折伏」のように信じなければ地獄に落ちると脅すのではなく、教団の行事に参加することが楽しいことである点を強調し、興味を抱かせる。
話を聞いていた信者さんからも所々で拍手が起きる講話であった。

右翼は民族の触角であれ

仲間を増やすことは大事である。先の霊波之光の例は非常に示唆に富んでいる。闇雲に仲間を増やすことは濃度を薄めることになり、ひいては場の存続を危ぶむこともある。かつて野村秋介は「右翼は民族の触角である」と語った。場に応じ、同志を増やすちょうど良い按排を考えてゆくのが最善となろう。

各所観光地を巡り、御神域を巡るに当たり、人を増やすことと場の安定した存続を担うことのバランスを考える良い旅となった。
今後も聖地を訪れたい。

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