昭和の遊び
昭和中期、ゲーム機も携帯もない時代。子供たちの遊び場はもっぱら外だった。学校から帰るまでに遊び相手を見つけておかないと、その日は寂しい1日となる。それでも遊び場なんて近くの公園か学校の校庭なので、そこへ行けば仲間に入れてもらう勇気さえ出せばなんとかなったものだ。
ビー玉とメンコ
近所に駄菓子屋があって、そこには安物のおもちゃが売っていた。中でも男子に人気だったのは、ビー玉とメンコ。今の子どもたちならゲーム機の通信機能で対戦ゲームをするところだろうが、当時はそんな洒落たものはなかったので、実際に向き合って闘っていた。たまに相撲なんかもやったが、ジャイアンみたいなやつはどこにでもいたので勝ち目はなかった。
体格の差が出ないビー玉やメンコはみんな大好きだったが、負けたら相手に取られるという結構シビアな闘いだった。たまにでっかいビー玉やメンコを持って来て総取りしtれいくヤツがいたが、それでもそいつと遊ばなくなることはなかった。そんな時代だった。
魚釣りと缶蹴り
公園に行ってみたらあまりに人数が多い場合は、「缶蹴りするぞー」ってなった。結構同じヤツを鬼にし続ける裏取引があった。泣いて帰ったらその日の缶蹴りは終わり。今考えればいじめになるんだろうが、当時は次の日はケロッと忘れてまた一緒に遊んだので大きな問題にはならなかった。
逆に二人だけで遊ぶときは、近くの川へ魚釣りに行った。近所に牧場があって、そこで牛の糞からミミズを取って川へ行った。俺は糞を触るのが嫌でいつも相方に取ってもらっていた。ただの細い竹の棒に糸をくくり付けて、その先に針を付けて釣っていた。それでも鮒が結構釣れた。釣れた魚を触るのが嫌な俺は、相方に外してもらっていた。
銀玉鉄砲
中学校へ行く頃には、テレビで「太陽にほえろ」(昭和42年放送開始)が放送された影響もあって、拳銃に興味を持つようになった。まだサバイバルゲームという概念はなかった頃で、街中で刑事と犯人に分かれて銃撃戦を繰り広げた。銀玉は土を圧搾して作られているので、発砲して放置しても数日で自然風化するので回収する必要はなかった。スプリングの力で打ち出す銀玉鉄砲は、当たってもそれほど痛い訳でもなく専ら打たれると自己申告となる。
それでも楽しくて幸せだった気がする
何もなかったけれど、それなりに楽しかった。疲れてヘトヘトになって家に帰ると、たいして美味くもない夕食が待っていた。テレビは1台しかなかったので、なかなか子供の番組は見せてもらえなくて、「宿題やって早く寝ろ」が親父の口癖だった。