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どんなカタチ?


 以前なけなしの貯金くずしていく生活の中、瞑想のガイド音声を作っていたことがあったりする。

そのことを話していた友人に「瞑想について教えて!」とリクエストいただけたので書いていく。自分にとってもいろいろ整理がついたのでありがたかった。

ガイド音声をつくるにあたってやっていたこととしては、瞑想についての論文を調べ、効果のある手法を基に原稿を作成し、読んだものを録音し、ノイズをカットする等編集。最後に調べたものを記事にしてまとめる. という一連の作業だった。ほとんど自分のために12本つくった。

使った手法は以下の通り
✧呼吸法
✧リラクセーション
✧ヴィジュアライゼーション(イメージの視覚化)
✧マインドフルネス(今ここに没頭)
✧デタッチトマインドフルネス(問題の認識変化)
✧注意練習(視点の変化への対応)
✧思いやりの瞑想

たっくさんあった。似ているものもある。だがどれも、決まったステップを踏めば誰でも一定の効果を得られるような優れものだ。

ただ、一つ一つの手法を掘り下げていけばルーツが存在する。例えば思いやりの瞑想は、チベット仏教などで唱えられるマントラにヒントを得たものであり、それを現代の科学が「これはどうも効果があるらしい。」としてまとめたものだ。もしこの瞑想法であれば自分に合いそうだとお思いになれば、試してみるのも良いかもしれない

...だがこの記事を書くことを促してくれた友人は、「弓道と瞑想の関係」が気になるとのこと。そのため私は単なる手法としての瞑想についてではなく、体験そのものの事についてさらに書く必要があると思った。以下には学生時代に取り組んだ弓道の経験を軸として話すが、「弓と禅 著:オイゲン・ヘリゲル 訳:魚住孝至」など誰でも手に取れるいくつかの書籍を引用しつつ話を進めていく。

 弓道部は学校でこそ運動系の部活に分類されていたが、部員同士では「私ら半文化部だよね」とネタにすることがよくあった。それは、弓道が単に得点をとることに捉われては成立しない行為だったからのように思う。言わんとしている具体的な描写をあげると、オイゲンヘリゲルが師に弓を習う場面がある。ヘリゲルが「どうやったら中る(あたる)のか」と悩んでいたとき、師匠がかけた言葉が以下のようにある。

「あなたは不要な心配をしています」師は私を宥めた。「中たりということを頭から消しなさい!  たとえどの射も中たらなくとも、弓の達人になることが出来ます。的に中たるのは、あなたの最高に高められた無心、無我、沈潜、──そうでなく、あなたがこの状態をどのように呼ぼうとも構いませんが──という状態の外的な証拠であり、確認に過ぎないのです。達人であることにも、段階があります。究極に達した人にして初めて、もはや過つことなく外的な的中が出来るのです」”

— 新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫) by オイゲン・ヘリゲル,  魚住 孝至

師匠は的にあたるかどうかではなく、「的にあたる」とはどのような状態にあるのか、ということを説いていた。それが無心、無我、という状態だと。

こうなるのが難しいのは、弓道において的を破る音(中り)というのは静寂の中の唯一の刺激と言って良いので、心身ともにものすごく高まるほどの衝撃があるからだ。学生時代にも「的は動かないけれど心は動く」とよく言っていたのだが、この外的な中りに左右されているうちは安定した弓は弾けない。まさに中りに関係なく、心の浮き沈みを穏やかにすることがとても大切だった。

 個人的には、「無心」とは、意識がぼんやりしつつも澄んでいるような感覚になるのだろうか、、と今はそう考えている。一方、著書の中の師匠は無心の感覚を「『それ』が弓を射ている」と言い表している。

「はて、『それ』とはなんですか?」と言いたくもなるが、この『それ』についての話は深掘りのしがいがある。少し脱線するが、心理学者の河合隼雄の著書「こころの読書教室」を紹介する。著書にて彼は、「弓と禅」の師匠の言う『それ』を、自己の無意識にあるものだろうという見解を述べている。

河合隼雄「こころの読書教室」より引用

図のように、無意識の一部(それ)が直接体現されるような働きが人間にはあるというのだ。

(その根拠には、精神科医のフロイトが「それ」のドイツ語「エス」を「無意識」の意味で使っていたことや、村上春樹が小説で「それ」という単語に傍点(•)をつけて記述した箇所を挙げて説明していたりするので、気になったら読んでみることをおすすめする)

そして例えば師匠のように弓を極めると、自我を意識することなく、無心で弓を弾けるということがわかってくるのである。

もし身近な体験を挙げるとすれば、ふと、自分の意図していなかった言葉が出てしまうようなことなど『つい⚪︎⚪︎してしまう』ことが『それ』の体現だと言えるだろう。

しかしこの『それ』の存在を認めるというのは非常に難しいことだ。なぜならその性質は禅でいうところの以下の4つの特徴を持つであろうから。

①不立文字
→言葉にできないもの

②直指人心
→直に心に触れることでわかる

③教外列伝
→教典では伝わらない

④見性成仏
→本性を見れば仏になれる

このことから禅というのは、誰に教わるでもなく、自分と対峙して得られる「無我の経験」にあると言える。意思や理屈を横において、「無」「ありのまま」を受け入れるという経験が、「『それ』はすでに知っている」という確信を生むからだ。そうすると、『それ』を会得するための教えはすでに学ぶ対象にはなり得ない。

話を「弓と禅」に戻すが、この「『それ』が弓を弾く」という無意識的感覚を、②の直指人心ならずしてか、ヘリゲルはすんなり受け入れることができずにいたので、師匠はとある試みをすることになる。

それは師匠が真っ暗闇で2本の矢を射てみせるというもの。的の輪郭さえもはっきりしない状況なのにもかかわらず、結果は、師匠が放った1本目の矢は的の中心に、2本目は1本目の矢の軸を裂くようにして中った。詳細は以下の通り。

“道場は明るく照らされていた。師は、編み針のように細く長い線香を、的の前の砂に突き刺し、垜の電灯は点けないように、私に命じた。暗かったので、その輪郭さえ認めることが出来なかった。もし線香のわずかな火が示さなければ、私は的の立つ位置をおそらくほのかに分かっても、正確に確認することは出来なかったであろう。  師は礼法を「舞った」。甲矢(* 34)は、光輝く明るい所から、深い夜の闇の中へと射られた。勢いのよい音で、それが的に中たったことが分かった。乙矢も中たった。  私は的の場所の電灯を点けた時に、甲矢は的の黒点の真ん中に刺さり、乙矢は甲矢の筈を壊し、軸を少し裂いて、甲矢と並んで黒点に突き刺さっていることを発見して、驚嘆した。私は、矢を一本ずつ抜くにしのびず、的と一緒に〔道場へ〕持ち帰った(* 35)。  師は、それを確かめるように見ておられたが、やがて言われた。「甲矢は大したことでないかも知れません。私は何十年もこの的に慣れ親しんでおり、深い暗闇でも的がどこにあるか分かっているに違いないと、あなたは考えるかも知れません。そうかも知れません。言い訳しようとは思いません。  けれども、乙矢は、甲矢を射貫いた乙矢は、あなたはこれを何と見られますか。いずれにしろ、この射を計ったものは、『私』ではないことを、私は知っています。『それ』が射、『それ』が中てたのです。我々は的に向かって、仏陀に向かうように頭を下げましょう」”

— 新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫) by オイゲン・ヘリゲル,  魚住 孝至


なんかもう、すごすぎますよね...!笑
オリンピックの選手がこの本を読んで、フロー(没頭)の感覚を知ろうとするという話も頷けます。

あとはスティーブ・ジョブズの愛読書だったりもするそうで。類似ジャンルには「禅とオートバイ修理技術」という本があるけれど、なにも⚪︎⚪︎道だけではない、この世のあらゆることに通づる精神について「弓と禅」は触れているのでしょうね。

 ...しかしひとつ注意したいのは、弓道のその美しい作法においては『それ』も美しく体現可能だけれど、没頭するものを他においたとき、人生において踏むべきステップは各人に拠るところが大きいため、『それ』はポジティブにもネガティブにも働くことがあるということだ。

無意識の扉を開きすぎたり閉めすぎたり、そのバランスは時に崩れることがある。結果、生まれる感情がその場に適さないことがあるように、このバランスは誰しもの抱える問題だろうと思う。私も「どうしようかなー」って悩んだりすることもしばしば。

でもここからそのバランス感覚について話を広げるには記事が長くなりすぎたので、最後にそのバランスをとるための1つのヒントになりそうな師匠の言葉を引用してまとめることにする。

蜘蛛は、舞いながら巣を張りますが、その巣にかかる蠅が存在するということを知りません。蠅は陽射しの中で何も考えずに舞うように飛んでいて、蜘蛛の巣に捕えられますが、自分に何が生じるのか知りません。しかし、この両者を通じて、『それ』が舞っているのです。そして内的なことと外的なものは、この舞いにおいて一つなのです。

— 新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫) by オイゲン・ヘリゲル,  魚住 孝至

蜘蛛のように人生のステップをきちんと舞えている、とじぶんで思うことができていれば、『それ』は自ずと形を変えていくはずだと思う。

踏むべきステップを毎度どうも間違え続けているような気がしているときでも、それがわかっているのならきっと大丈夫。大局的に見れば、良い面を生きられるように。みんなでがんばろう。


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