人生でそんなに断定できることってあるのか?という疑問と他人の感覚の表現への疑い

前々から思ってたんだけど、みんな世の中のあらゆる原因を断定できすぎでは?という思いが強くなっている。

自分の場合、財布が見つからなくなっても「盗まれた?」って思い至るまでにめちゃくちゃ時間がかかるし、これは絶対どっかで落とした!とか絶対盗まれた!とか断定ができないから、そういう不安がずっとある。(人が盗むなんてありえない!みたいな性善説ではない)だけど、友人とか周囲の人が絶対盗まれたわーとか言っているのは結構耳にする。

それ以外にも、今日は気分が悪い、頭が痛い、気持ちが乗らない、テンションが上がらないみたいなときに、「今日は低気圧来てるから」と断定できる人をみて「すごいな」と思う。嫌味とかではなく本当に。腹痛に襲われた際に「これ絶対さっき食べた◯◯のせい」とか言う人もすごいと思っている。自分はそういうの全然ピンとこなくて、頭が痛くても「頭が痛いなあ」と漠然と思っているし、腹痛が来たら「なんで腹痛になるんだよ」と漠然といやだなあと思う。この漠然とした嫌さみたいなのにずっとつきまとわれている気がしているんだけれど、周囲の人の発言とかツイートとかを見ると、さっき書いたみたいに、原因を断定している人が多い。この感覚のずれが何によるものなんだろうというのを最近よく考えている。本当はみんな自分と同じように理由を断定しているわけじゃないけど、「絶対」という言葉をあえて使ったり原因を断定したりすることで安心しようとしているのだろうか?

断定できたら確かに気持ちが楽になるだろうなあと思う一方で、反対に同しようもない気持ちにもなってしまうんじゃないかとも思った。例えば、低気圧のせいで頭が痛くなっていたら、どうしようもない。頭痛薬を飲んで大人しくしているしかない。でも仕事の締切は待ってくれないので、頭が痛くても頑張るしかない。それでも、低気圧を呪いながら仕事を進めれば、少しは捗るのかもしれない。

少し話がそれるが、私は色んな人が同じ言葉を使って体の違和感とか5感から得た情報を共有しているのに違和感を覚えることがある。例えば、「肩がこる」という表現があるが、「肩が凝っている」と言っている人はみんな本当に同じ状態なのか?みんなそれぞれの思う「肩がこる」状態なだけで、実は全員全然違う状態だったりしないだろうか。グルメリポーターが「新鮮で」「噛めば噛むほど風味が広がって」「口どけがよくて」という言葉を使っているのを見て、本当にそうなのか?自分が同じものを食べた場合に本当にそう思うのか?というのも疑ってしまう。これはレポートの技術の話をしているわけではなくて、そもそも5感で得た情報なんて人それぞれなんだから、それを言葉にすることにどれくらい意味があるんだろうかということだ。反対に「◯◯みたいな味」みたいな表現はわりと信頼できるなあと思う。自分も◯◯を食べたことがあれば、それを頼りになんとなく味がイメージできるので。でもグルメレポート(リポート?)って味をなにかに例えるのをあまり良しとしていない気がしていて、そこに少し違和感を覚える。私がいつも見ているオモコロチャンネルでは、何かを食べたときにだいたい「◯◯に似た味」とか「◯◯のにおいがする」とかいう表現をするので、とてもいいなあと感じている。

何が言いたいかと言うと、私は私の体のことなんても大してわかっていないし、他の人の感覚が自分と同じだともあまり信じていないので、周囲の人が言っている断定や感覚の言語化に疑いを持っている、ということが言いたかった。ずっと思っていたけれど言語化できていなかったので、記録としてnoteに書いてみた。

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