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禁止に就き残本限り絶版


成島柳北『柳橋新誌』(特選名著複刻)が古書目録に500円で出ていました。たまたま読んだ寺門静軒『江戸繁昌記』(東洋文庫)がめっぽう面白かったことから柳橋にも興味が湧いて注文してみたのですが、珍しい本でもないので、難なく手に入りました。

漢文の著作とは言ってもほぼ和文を漢字に置き換えただけという文体はさほど難解でもないし、内容はフーゾク情報ですから、例えば、芸妓にとって「茶」というのは不吉な言葉だった(だから今でも「あがり」と言い換える)などというトリヴィアに感心しながらのんきに読みました。

岩波文庫解説目録(2022年度版)の紹介文にはこうあります。

《幕末から開化期にかけての柳橋の風俗を描いた成島柳北(一八三七―一八八四)の漢文随筆集。もと三篇からなる。初篇は深川にとってかわり盛んになった柳橋の花街風俗を活写。二篇は短篇小説ふうの挿話をつなぎ合せた構成で花街という視角から幕末維新期の激動を巧みにとらえた傑作。三篇は序のみ伝えられ本文は散佚した。》(p159)

オリジナルは明治7年に山城屋稲田政吉という江戸以来の出版人によって刊行されています。内田魯庵『読書放浪』(書物展望社、1933年)に稲田についての記述があるので少しばかり引用してみましょう。

《西側の銀座二丁目のタシカ三枝小売部の処に『江戸名所図会』にあるやうな古い行灯看板を出してゐた。『東京新繁昌記』の出版人であるし、本屋としても毛色の変つた男であつたから、矢張り銀座人物伝の中に加へねばならない一人である。》

ここで言う『東京新繁昌記』(服部誠一、明治7年)も『江戸繁昌記』の明治版として大ヒットした作品で山城屋は《旨い汁をシタタカ満喫した》。筆者(私のことです)もこの初篇を架蔵しているくらいですから、よほど売れたにちがいありません(ウィキには1万数千部と)。次に続けとばかり投入したのが『柳橋新誌』なのです。これがまた思惑通り『東京新繁昌記』以上の人気を呼びました。ところがです、《山城屋はホクホク者で土蔵の三つ四つも建増しする懐ろ勘定をしてゐた処が、柳北の洒落な麗筆が祟をして、出版幾何も無く風俗上の罪に問はれて禁止された。》

洒落な麗筆が祟ると魯庵は言うのですが、どこがどう発禁になるほどの表現なのか、今読んでも皆目見当がつかきません。要するに『朝野新聞』の社長兼主筆であった成島は明治政府の讒謗律・新聞紙条例を茶化して禁獄4ヶ月をくらったほどの反体制派(薩摩人大久保利通の独裁時代、成島は元幕臣)だったため政府から睨まれていたということでしょう。これは今日、ロシアや中国のジャーナリストが発言権を奪われているのとまったく変わらないのです。

発禁になったからといって簡単に引っ込む山城屋ではありませんでした。役所へ押しかけて「禁止はしょうがないですが、こっちも商売です、印刷製本した本だけはなんとか売らせてくださいよ」と嘆願におよびます。その頃は、発禁本でも押収ということはなかったらしく、しかもまだまだ同情的で、評議のすえに《増刷は罷成らぬが残本は寛大に見る》というお沙汰があったそうです。ラッキー! と山城屋は胸を撫で下ろしました。店に帰るやいなや「『柳橋新誌』禁止に就き残本限り絶版」と大きく書いた看板を立てました。

《さア売れるとも、売れるとも、何遍追摺しても製本が間に合はぬほど売れ、其の頃としては今日の円本の数万部にも匹敵する何千冊が瞬く間に売切れて了つた。あの頃は随分ノンキでしたと、後に稲田が太ツ腹を抱へての憶出の笑ひ咄であつた。》

お上の言うことなどまったく意に介していない。どんどん増刷したのです。発禁・絶版を逆手にとった商魂はたくましいとしか言いようがありません。この成功もあってか、稲田は東京の本屋の元締めの一人となり、成島柳北の感化を受けて府会議員にもなりましたが、明治28年の鉄管汚職事件に関係して失脚、商売も廃したとのことです(『紙魚の昔がたり』明治大正篇)。

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