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本町通りとミルクホール


北園孝吉『大正・日本橋本町』(青蛙房、昭和53年9月20日)

善行堂の店頭均一で百円でした。函もなく大津市立図書館のリサイクル本ですから仕方ないでしょうね。しかし読んでみますとこれはなかなか面白い回想録でした。青蛙房の「シリーズ大正っ子」の一冊です。著者は大正三年、日本橋生まれ、作家。「第二章・本町界隈の記憶図 本町通りとミルクホール」からミルクホールの描写をメモしておきたいと思います。

本書見返しより


本書見返しより

本町マラソン大会というものがありました。町内の若い衆が二十人ばかり参加。その二等か三等になったのは自分の家に牛乳を配達してくれる青年でした。同じ町内(本町二丁目)に吉田牛乳店があったのです。

《あのころの牛乳ビンは瀬戸物の口がしてあって太い針ガネのバネで開閉した。それでビンの頭から針ガネのところまでペーパーが貼ってある。ビンをあければペーパーは破れるから、中味を保証するわけである。
 その吉田牛乳店は配達もするが、店はミルクホールだった。そのころ幼かった私は店内へ入らなかったけれど、後の少年期から他のミルクホールへはいった。
 どこの店も様式は同じで、土間の左右の壁に沿って長いテーブルがすえつけてあり、真ん中の長テーブルは客が向かい合わせになる。おとなは新聞や官報を読む。ガラスの丸いケースが三カ所くらい置いてあり、シベリヤやワッフルが入っていた。ワップルと称していた。シベリヤは三角形のカステラで、真ん中が餡こになっていた。
 牛乳が、たっぷり一合入りのカップで五銭のとき、「シベリヤ」が十銭。コーヒーや紅茶はなくて、ジャミ[三文字傍点]付き、バタ付きが一枚五銭。小学生の私などは、すでに青年期の兄に連れられて、ときどき行った。
 本石町、本銀町、室町などにミルクホールがあり、今の喫茶店の前身という人もいるが、それとは別に震災の少し前ころから、わが家の近所にもカフェーまがいの店ができて、"女給"がいて、カチューシャの唄やデアボロの唄の蓄音機をかけている店に、当時のヤングたちが集まっていた。そんな店があちこちに出来て、やがて昭和前期の喫茶店へデザインを変えてつながっていったと思う。》(p24-25)

ミルクホールが東京にできたのは明治三十四年で「新聞雑誌小説縦覧所」と分類されていました。学生街に多かったようです。その名称はビヤホール(明治三十二年新橋に開店)にあやかったとされています。神田の桃牧舎、銀座の千里軒、日本橋の桃乳舎などは明治から戦後まで営業していました。ミルクホールにコーヒーはなかったと北園は書いていますが、もう少し後、昭和期になるとコーヒーも出すようになります。以上は拙著『喫茶店の時代』(ちくま文庫)より。

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