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有賀の中也

 中原中也の肖像が気になって、少し前から、その写真の載っている本を見つけしだい求めるようにしています。例のマントを着て黒いソフト帽をかぶった写真です。中原中也と聞いたら、誰もがこの写真を思い浮かべるでしょう。詩集はもちろん関連の単行本や文庫本の表紙または口絵に、必ずと言っていいほど、このモノクロ写真が掲載されています。中也のアイコンです。

ところが、何冊か集めてみて分かったのですが、よく見ると、中也の表情が、みんなそれぞれ少しずつ違うのです。特に活版印刷時代の図版にはかなりいかがわしいものがあります。単に印刷が悪いというばかりでなく、雑なリタッチがほどこされていたりします。そうすると、ただでさえ、微妙な(美少年風でありながら、どこか貧相で幸せ薄い)中也の顔つきが、まるで別人に見えてくるのです。これが非常に面白く感じられて、他の図版も探したくなってしまいます。

大岡昇平『生と歌 中原中也その後』口絵


 『中原中也の世界』(中原中也記念館、2017)によりますと、この写真は18歳のときに撮影されたとされているようです。その年、大正14年(1925)の3月、中也は長谷川泰子とともに上京しています。京都で知り合った富永太郎に紹介されて小林秀雄に初めて会いました。後に泰子は小林の元へ去ってしまうことになるのですが、おそらくこの写真は上京して間もなく、高揚した気分のまま撮影されたのかもしれません。

 写真の下部に「PHOTO-KUNST-ATELIER / T.G.ARIGA」と二行に刻印された文字が浮かび上がっています。写真師データベース「幕末明治の写真師総覧」で検索してみますと、このARIGAというのは銀座七丁目にあった有賀乕五郎(ありがとらごろう)の写場だったかと思われます。有賀は福島県出身、明治末にドイツに留学して写真術を学び、帰国後の大正4年に開業しました。大倉喜七郎、マッカーサー夫人と令嬢、佐藤春夫などを撮った写真が残っているようですが、どうやら、この中原中也が最も流布した作品ということになりそうです。

大岡昇平『生と歌 中原中也その後』(角川書店、昭和五十七年一月三十日)ではこの写真館について次のように書かれています。

「有賀」は当時、銀座六丁目あたりにあって、見合写真を撮る芸術写真館だった。まず十八歳の中原が、どうしてこんなところで写真を撮る気になったか、に問題がある。私たち東京の人間は、必要もないのに自分の写真を撮りに見合写真屋へ行くことはなかったのだから。

(p53)

《銀座六丁目あたり》については写真師データベースによる七丁目が正しいとしておきます。それにしてもこれは随分な言いようですね。中也はよほどの田舎者だったのでしょうか。大正末といえども、銀座の写真館で写真を撮影するというのは何か特別な出来事(もちろん見合も含まれるのでしょうが)なければならなかった、とすれば、中也にとって長谷川泰子とともに東京に出てきたということはやはり特別な何かだったのではないでしょうか。

あるいは、特別でなくとも、銀座通りを闊歩していて(たぶん闊歩していたでしょう、十八だし、マントを着て、あのお気に入りの帽子だし)通りがかった写真館に衝動的に入った、と考えるのも詩人らしいと言えば言えると思います。

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