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まつたく witless で h-less だつた

ジョウヂ・ムウア『一青年の告白』(辻潤訳、改造文庫、昭和4年11月20日)をとにかくもざっと読み終わりました。辻潤の雑文は好きなのですが、少なくとも、この翻訳はいただけません。この文庫からちょうど十年後に『一青年の告白』(崎山正毅訳、岩波文庫、1939)が出ているのもうなずけます。

大雑把に言えば、ジョージがアイルランドで生まれ絵描きになろうとパリに住み着いて修行するも、結局モノにならず、ロンドンに戻って、今度は小説家になろうともがいていた青春時代(1870〜1883、18〜31歳ごろ)を英仏の美術や文芸に対する批評・感想を、身辺の様子などを織り交ぜながら、回顧した内容です。その意味では非常に興味深い部分も少なからずありました。できれば原文で読んでみたいと思いました。

例えば、パリでの印象派の展覧会。第一回は、1874年4月15日から5月15日までカピュシーヌ大通り35番地のアトリエで開催されました。その評判がさんざんだったことはよく知られているでしょう。ジョージ・ムーアも友人といっしょに出かけています。そこでジョージが見たのは、ピサロが《庭園で林檎を集めてゐる少女の群れを出品した》(p63)とありますので、これが「りんご採り」(1886、上図)ならば、第8回印象派展ということになります。

『もうかれこれ一時だ。起き給へ。なにかニユウスはあるかね?』
『今日は印象派連の展覧会の初日だ。デュランで一寸飯でも食つて、出かけやう。なにしろ癲狂院跣足だと云ふからね。縦横二十呎もあるカン〓[ワに濁点]スで、絵具が三色だとさ。光線が薄黄で、蔭が鳶色で、後はスツカリ空色ださうだ。それから、正面を尾長猿を抱いて歩いてゐる貴婦人がゐるさうだ。そしてその猿の尻尾が三ヤードもあるとさ。』
 新しい耽美主義を実現する希望から通俗の凡ゆる楽しみを好んで失つてゐる熱心家の群を冷かすべく僕等は出かけた。パテント、レザアの靴を穿き、光沢のあるキツトの手袋をはめ、学校の凡ゆる隠語[ジヤアゴン]に武装されながら高慢な顔をブラ下げて出かけた。『あの脚は危なつかしい』『自然はあんなじやない』『みんな大握みに描いてゐる。頭はどの位あるだらう』『七吋半』『僕が白墨を持つてゐれば皿の中に入れてやるのだが。まるで赤ん坊だ。』一口に云へば、芸術雑誌が芸術的教育と名付けることを喜びさうなものばかりだ。僕等は猛烈な哄笑に耽つた。出来るだけ苦痛を与へる希望から努めて誇張した。だが、僕等の霊魂の深い底では、僕等が自ら欺いてゐることを知つてゐた。ーー少なくとも僕はさうだつた。

p60-61

印象派の新しさが徐々に若者たちの審美眼に影響を与えていたことが分かります。

ジョージはロンドンに戻ってすっかりフラン風になってしまった英語と格闘しながら小説や戯曲を書いていました。そんなときにある出版人と知り合います。

 ストランドの近傍に或る出版屋があつた。その男が度々ある酒場へ出かけた、そしてこの御立派な人物はグデグデになつてゐる時に、彼の商売の取り引きをした可愛いいおひとよしで、まつたく witless で h-less だつた。永年の習慣から、彼は取引きするのにハキハキしないので、たいていは瞞されてゐた。彼がたしかに三百磅は儲かる本に対して流行作家が二百磅を要求したとしても、たいていいつの間にか機会を与へて、彼を取り逃がししてしまふ、けれど彼が『待遇する』と称するストランドのノラクラ人物の作物を十二遍も拒んだ後で、彼は『まあ持つて来て見給へ、持つて来て、どうなるか一ツやつてみませう。」と云つたものだ。

店にはながい帳場があつた、そしてB氏によつて出版されたいと思へばその帳場に大股をひろげて黒猫に調戯つてゐなければならない。この帳場の背後に愛蘭土人が一人ゐた。その男は、一週間、二週間、三磅で、雑誌を編輯して、原稿を読んで、印刷屋と製本屋とを監督して、帳簿を整理して、御客を歓待した。僕は礼儀を厚くしてマクミランやロングマンのオレキレキを煩はして僕の原稿を見て頂くやうなことはやらなかつた。僕は大股をひろげて、猫と戯れて、愛蘭土人と戯談を云ひ合つてB氏と一緒に飲んだ。そして物の自然の順序として僕の物語が雑誌に載つて、金が払はれた。この事務のやり方は不思議だつた。たとへシエイクスピヤが散文や詩を担ぎ込んだとしても、若し彼が予め大股をひろげなければそれが悉く紙屑籠へ投り込まれたかもしれなかつた。

p233-234

まだこの後も出版社の描写はつづきますが、これは今でも、そう大きく違ってはいないのかな、と思ったりします。それはそうとして、ここに引用した部分からだけでも、辻潤の翻訳が不消化だというのは分かっていただけるでしょう。《witless で h-less だつた》って、どうして原文のままなのでしょうね? 

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