見出し画像

どうかしてシャトレエを逃げ出して、命のあらん限り、僕はお前を救ひ出す事に力を尽さう


アベ・プレボオ『マノン・レスコオ』(広津和郎訳、新潮社、大正8年10月20日5版)

マノン・レスコオ』は、7巻からなる自伝的小説集『ある貴族の回想と冒険』(Mémoires et Aventures d'un homme de qualité qui s'est retiré du monde)の第7巻に当たる『騎士デ・グリューとマノン・レスコーの物語』(Histoire du chevalier des Grieux et de Manon Lescaut)が一般にそう呼ばれている恋愛小説である。原著は1731年刊行。

Mémoires et avantures d'un homme de qualité, qui s'est retiré du monde

広津和郎の「序」によれば、この作品は世界の恋愛小説の中でベスト5に数えられるべきもの、だそうだ。

 作者アベ・プレヲオ(アントアヌ・フランソア・プレヲオ)[ヲに濁点]は一六九七年、仏蘭西アルトアに生れた。彼はゼスイット教派の学校で教育を受けたが、或は軍隊生活に入つり、又ゼスイット僧院に戻つたり、再び軍隊生活に入つたかと思ふと、今度はベネディクト教派の僧院に入つたり、非常に熱心に勉強するかと思ふと、ひどく思ひ切つた淫蕩な生活を送つたり、その波瀾の多い生涯は恐らく「マノン・レスコオ」の男主人公のそれに彷彿たるものがあつたに違ひない。その間にも彼は数多の著書を公にした。が、言ふ迄もなく、彼の名を不朽にするものは「マノン・レスコオ」一篇に外ならない。彼は一七六三年、突然死んだ。

訳者「序」

広津はフランス語が読めないため英語版から訳した。そのせいか固有名詞がフランス語読みになってない。また原書は本書の倍ほどの量があるとも言っている。例えば、先日たまたまプッチーニの「マノン・レスコー」(1893年初演)から、マノンが流刑地のアメリカへ連行される船に同乗するため、主人公のデ・グリューが同乗させて欲しいと船長に滔々と訴えるときに歌うアリア「狂気のこのわたしを見てください」を聴いたところだった。彼の気迫に押された船長は「見習い船員」として同乗を許可するのだが、そのシーンが本書ではアッサリと

私はさしたる困難もなく船に乗組む事が出来た。

p182

この一行で済まされている。ビックリ。半分に減らすにはこのくらい端折らないといけないようだ。

デ・グリューやマノンは何度もパリの監獄に入れられることになるが、その監獄が今日とは少々違って、なかなか融通が利く場所なのである。元々は貴族たちがそれぞれに獄舎を所有しており、ルイ十四世がそれらを統べるようになる1674年にはパリに18の獄舎があったという(Wikipédia「Prisons de Paris」)。

デ・グリューは最初のときにはサン・ラザアル監獄(L’enclos Saint-Lazare)に容れられる。中世にはレプラ患者の収容所だったそうで、1701年の地図で見ると周りはすべて畑である。現在は10区で東駅の近くになるようだ。次に入るのがル・シャトレエの牢屋(Prison du Grand-Châtelet)でこちらはなかなか厳重な設備だったらしい。現在の1区、パリの中心地にあった。

一方マノンはマグダレンに入れられたとある。これはマドロネット修道院(Couvent des Madelonnettes)のことだろう。マドロネットというはマグダラのマリア(マリーマドレーヌ)の娘たち(des filles de Marie-Madeleine)要するに売春婦を収容する矯正施設で12世紀に創立されたそうだ。現在は跡形もなく3区のフォンテーヌ・ジュ・タンプル通り(rue des Fontaines-du-Temple)に銘板があるのみ。

二人が二度目に捕まってシャトレエへ移送された場面を引用しておく。二人は馬車の中で愛を確かめ合った。どんな事態になっても愛しています、というマノンの言葉に勇気づけられるデ・グリュー。

その言葉を力に、僕はこれからも益々奮闘しよう。どうかしてシャトレエを逃げ出して、命のあらん限り、僕はお前を救ひ出す事に力を尽さう。
 そのうちに私たちは牢屋に著いた。私たちは別々にされた。これは勿論予期してゐた事であるから、驚かなかつた。私は門番に彼女の事をよく頼んで、自分は相当な家の者だから、十分の事をするからと言つた。別れる前に私は彼女を堅く抱擁した。私は彼女に決して力を落さないように、私が生きてゐる限り決して絶望する事はないと言ひ聞かした。私は少しの金を持つてゐたので、そのうちの幾らかを彼女に与へた。そして残りを門番に与へた。これは非常な効果を生じた。といふのは私はひどく小ざつぱりした室に入れられた。そしてマノンも亦私と同じ様な室に入れられたとの事であつた。

p149-150

 私は早速脱出の方法を工夫し始めた。私の行為には別に犯罪を組立てるものは何もなかつた。たゞマアセルの陳述如何によるのであつた。私は急に父に手紙を書いて、彼に巴里に来て貰ふ事にした。前にも言つた様に、サン・ラザアルから思ふと、ル・シャトレエにゐるといふ方が、私には尚言ひにくかつた。だが、私は思ひ切つて書いた。牢屋から手紙を出すのには何の困難もなかつた。

P150

地獄の沙汰も金次第・・・かな。こうなると全訳で読んでみたくなる。野崎歓訳の光文社古典新訳文庫(2017)が出ているから探してみよう。

奥付


前見返しの遊び紙に旧蔵者の書き入れあり
《俊美文庫/大正八年十一月/小山田蔵》

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?