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貧しい絵かきが女優に恋した


『PIROSMANI SELECTED WORKS』(Sovetsky Khudozhnik Publishers, 1986)

古本海ねこ古書目録18号』より『PIROSMANI SELECTED WORKS』(Sovetsky Khudozhnik Publishers, 1986)を購入。モスクワで出版されたピロスマニの作品集である。テキストはロシア語と英語で印刷されている。

古本海ねこ
http://umi-neko.com/index.html

昔、伊丹市の「つかしん」(《1985年にセゾングループの創業者・堤清二が提唱した街づくりの理念を体現した都市郊外型施設「つかしん」として、グンゼ塚口工場の跡地にオープン。名称はコピーライターの糸井重里により命名された。》ウィキペディア「グンゼタウンセンター つかしん」)でピロスマニ展を見た記憶があって、そのときの図録も持っている。ただ、できれば画集も欲しいなとずっと思っていた。

なかなか手頃な画集に出会わなかったのだが、やっと望みがかなった。印刷の色調が渋いのもいい。海ねこさんによれば、注文殺到したそうだ。ラッキー。

本書の解説からピロスマニについて引用してみる(ウィキペディアの方がもう少し詳しいかもしれませんけど)。

1862年にジョージア(グルジア)の田舎の貧しい家庭に生まれた。幼少期にチフリス(Tiflis、現在のトビリシ)へ出て死ぬまでそこで暮らした。子供の頃から絵を描くのが好きだった。鉄道の案内人となったり、商店経営をしてかなりの成功を収めたが、三十歳代の終わり頃(ちょうど世紀が変わる頃)、全てを捨てて職業画家になることを決意。

美術教育は受けておらず、生活圏内にあるあらゆるもの、教会の壁画、民芸品、店の看板、チフリス画派の画集、新聞雑誌などの挿絵、ロシアの版画、ペルシャのリトグラフの本、当時どの家庭にも飾られていた肖像写真などから学び、独自の作風を作り上げたようである。

商店の看板や壁画を描いてその日暮をはじめた。一夜の宿とワインのために絵を描くような生活だったが、地元では非常に人気のある画家となり、パトロンや彼の作品を集めようする者もいたという。

1912年、ロシアから来たキリルとイリヤのズダネビッチ兄弟(Kirill, Ilya Zdanevich)やフランスから来たミシェル・ルダンチク(本書では Mihail Le Dentue)らのエリートたちに発見される。彼らはピロスマニについての記事を書き、作品を蒐集し展示会を行った。

彼らの活動によってチフリス以外にも名前が知られるようになり、死の少し前にはピカソがピロスマニの肖像画を描くほどだったそうだ。しかし、その賞賛を十分享受する間もなく、1918年4月9日、その頃住んでいた地下の穴蔵で三日間寝込んだすえに死去したという(スペイン風邪かもしれません)。

タイトルを「貧しい絵かきが女優に恋した」(「百万本のバラ」の歌詞から)としましたが、そういう女優とのエピソードはなかったということです。


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