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ダンモ族だったころ

ユリイカ』第九巻第一号(青土社、昭和52年1月1日)特集=ジャズの彼方へ。特集の記事のなかで清水哲男氏が「ダンモ族だったころ」というエッセイを寄せています。ここにはジャズ喫茶の名前がいくつも上がっていて参考になります。

いまでもあるようだが、立命館大の近くの「シァン・クレール」という店。ハクいスケこそいなかったけれど、ある意味でそこは、知ったかぶりが屯する場所であり、新しがり屋の巣窟という感じなのであった。とにかく、はじめて「シァン・クレール」の階段を上がっていったときのぼくは、ジャズといえばアート・ブレーキーしか知らなかったのであり、一緒に通った仲間たちにしても、おそらく五十歩百歩であったにちがいない。それがどうだろう。六ヶ月も通わないうちに、ぼくらはもう、いおおあしの通[傍点]となりあがり、ケニー・ダーハムがどうの、ウィントン・ケリーがどうのなどと、おばあちゃん顔まけのハクい知識を身につけていたのである。

(p170)

しぁんくれーる
https://sumus2013.exblog.jp/31341759/

いまではどんな具合であるのかは知らないけれど、つい十数年前のジャズ喫茶の客というものは、ほとんどが沈黙瞑目タイプだったのである。「シァン・クレール」ばかりではなく、同じ京都の「ブルー・ノート」でも、あるいは東京の「きーよ」「木馬」「DIG」「ママ」といった店でも、客はおおむねこのようであった。「酔った人、サングラス姿、タボシャツ・スタイルお断り」の札が貼ってあったのは、「木馬」だったろうか。狭かった昔の「木馬」は、スプリングが弾ね上ったような椅子[ソフア]を置いていたが、上品さを維持しようとするプライドの弾ね上りのほうも、相当なものだった。

(p171-172)

大学の二度目の四回生の頃(ということは一九六〇年代中頃)、新宿二丁目あたりで『凶区』の渡辺武信、吉原幸子らのメンバーたちと酒を飲んだことがあった。

いい加減飲み飽きて、さあ帰ろうかと店を出た途端に、我ら酔っばらいの目になぜか共通して飛び込んできたのが、当時のダンモ喫茶の名門「きーよ」という店であった。すぐに誰かが「そういえば最近、聴いてる人いる?」といった。するともうひとりの誰かが「それにしてもあの店には、ずいぶんと投資したなア」と、すでにシャッターを下してひっそりと沈まりかえっている「きーよ」を呪った。

(p172)

そして彼らは酒場でもらったバナナを大急ぎで食べてからその皮をていねいにシャッターの前に敷き詰めはじめた。

「オヤジさん、朝になったらスッテンコロリだぞ」。誰からともなく、ククッというしのび笑いが洩れた。けれども、である。ああ、なんと人生とは皮肉にできているのだろう。ああでもない、こうでもないとバナナの皮を敷く作業に熱中している若き詩人たちの背後には、いつの間にか明日の朝スッテンコロリとなるはずの「きーよ」のオヤジさんが、それこそ悪い皮肉の塊のような姿で立っていたのだった。
 もちろん、この話はモダン・ジャズとは何の関係もありはしない。けれどもいま思い出してみると、どうやらぼくは、この頃からジャズ離れをしはじめたらしい。

(p172)


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