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自然に立ち向かっていくのを意識的か無意識的にか避け、写実を空想に代え、自らの絵を弱くしてしまったと思うのです。


坂本繁二郎『私の絵 私のこころ』(日本経済新聞社、昭和44年10月20日)

美術大学の学生だった頃には京橋のブリヂストン美術館(アーティゾン美術館の前身)へしばしば足を運んで青木繁や坂本繁二郎の絵をじっくり眺めたものである。土曜講座を聴きに行ったこともあったように思う。美術館と呼ぶには少し手狭な美術館だったが、その分、ゆったりと時間を過ごせる親密さがあった。

それからもう40年以上が経ってしまった。2022年の秋、八重洲の東横インに泊まった。時間があったので銀座方面へぶらぶら歩いていると見上げるようなアーティゾン美術館が目の前に現れた。ちょうどこんな展覧会をやっていた。

生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎
https://www.artizon.museum/exhibition/past/detail/543

懐かしくなってこれは見てみたいということで、アーティゾン美術館、初体験となったのだが、かつての慎ましいブリヂストン美術館の面影はひとかけらもないピカピカの建物である。別世界へ戻ってきた浦島太郎である。年齢をとるということは、こういうことなんだなと妙に納得。

展覧会としては、知らない作品も数多く、資料的にも充実していた。青木の天才と坂本の鈍才(悪い意味ではなく)が際立っていた。

この本で坂本は青木について次のように書いている。青木のところに坂本が同居していた時期があった。坂本の留守中、八分通り出来上がっていた坂本の絵に青木が勝手に筆を入れたことがあった。それに対してめったに怒らない坂本が激怒し、滅多に謝らない青木が「悪かった」と頭を下げたというエピソードを披露した後、坂本はこのように青木を分析している。

 青木の絵は、発想の根源が文学です。自然に立ち向かっていくのを意識的か無意識的にか避け、写実を空想に代え、自らの絵を弱くしてしまったと思うのです。「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」は空想的な構成に走っています。幻想は幻想でいいのですが、幻想を追ううちに夢ばかりが先行し、必然的に出てくる心の矛盾の解決に窮してしまう。青木ほどの色彩感覚と写実力は、その後もお目にかからないぐらいなのにといまもって惜しまれるのです。

p43

青木が抜群のデッサン力をもつことは間違いない。しかし幻想的なのは坂本の方で、初期はともかく、牛を描き出した頃から、坂本が写実を目指しているとはとうてい思えないのだ。青木は鉛筆の小さなスケッチを見ても、というか、そういう素描に天才的なデッサン力(ものの捉え方)を感じさせる。一方、油彩の方はさほどでもない。青木自身が望む絵作りへたどりつくための、絵の作り方、構成力が足りないのではないか。絵の具の使い方もまずいようだ。

対して、坂本繁二郎はパリに三年間も学んだが、その前後では、何も変わらなかったと言ってもいいくらい変わっていない。もし青木が三年パリに滞在できていれば、どうなっていたか、絵なんか止めてしまった心配はあるにしても、鋭敏な感性でヨーロッパの人間や空間の扱い方、絵の具の本当の使い方、を学んで帰ったのではないだろうか。そんな青木の絵が見てみたい気がしないでもない。無いものねだり。

何年か前のこと、大阪のある画廊で、店主が面白い人で話が合ったのだが、応接室に呼び入れられてみると、そこには二、三点の小品が掛かっていた。葉書大の油絵を指さして「誰か、分かりますか?」と言う。絵の具が幾重にも重なってほぼ抽象画に見えるのだが、どうやら風景のようである。サインも小さくて読めない。「う〜ん、さて、誰でしょうねえ」と首を捻った。

すると勝ち誇った店主は嬉しそうに「坂本繁二郎です」と種明かしをした。ちょっと驚いた。こういうところに坂本繁二郎の本質が露わになっているような気がしたのである。正直、アーティゾン美術館で見たどの坂本の作品よりも、大阪の小品が頭に残っているのも不思議なことだと思う。

画商の話が出たついでに、本書でも坂本をずっと支え続けて画商のことに触れているくだりがあるので、引用しておこう。

 私の専属画商といえるのは、大阪梅田に草人社の画廊を持っていた久我五千男君だけです。昭和十四年に初めて訪問を受けてから、彼の出征期間を除いて、二十年余交流を重ねましたが、私に不得手な世俗事はいっさい引き受け、私を父のようにしたってくれました。商売の腕もなかなかのようで、売れないままアトリエのなかに埋もれていた「うすれ日」や馬の絵、滞欧作をどんどん持ち出し、私の絵を理解してくれる人を捜しては、当時としては一流の価格で売り、画料を送ってくれたのが彼でした。 

p95

作家にとっての編集者と同様、画家にとっても画商は非常に大きな存在なのである。

この雲の絵が好きです

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