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かわいそうなアンドレ! 地べたにしゃがみこんで、なんて悲しそうなの!


ラドヴァン・イヴシック『あの日々のすべてを想い起こせ アンドレ・ブルトン最後の夏』
(エディション・イレーヌ、2016年9月28日、造本=間奈美子)

ラドヴァン・イヴシック(Radovan Ivšić, 1921-2009)はクロアチアの詩人・作家。本書はアンドレ・ブルトンの最期をみとるに至るまでの経緯を詳細にかつ簡潔につづった内容です。ブルトンに興味のある方には必読だと思われます。

イヴシックは晩年のブルトンを取り巻く人々のなかでも最もブルトンに信頼されていた人物だったようです。この原稿はイヴシックが晩年になって当時を思い出しながら執筆したのですが、そのまま没後まで発表されずにいたものでした。同士であり伴侶であったアニー・ル・ブランによってガリマール書店から2015年に刊行されました。

ブルトンは1966年7月にパリを離れて、毎年夏のヴァカンスに出かけていたフランス南部の中世の面影を残す美しい村サン=シル=ラポピー(Saint-Cirq-Lapopie)にある別荘へ妻のエリザとともに移り住みました。体調が非常に悪くなって自ら死期について考えるところがあったようです。

バカンスの間はブルトンの取り巻きたちがやってきていましたが、8月が終わるころには、ブルトン夫妻とイヴシックとトワイヤン(ふたりはこの時期仲良くしていたようです)しかサン=シル=ラポピーには残っていませんでした。ブルトンはイヴシックを最後の友人として親しく語り合ったりちょっとした知的なゲームをしたりして穏やかに過ごしたようです。

ブルトン(左)とラドヴァン・イヴシック

9月21日になって状態が悪化します。主治医は入院するように勧めました。ブルトンの意向で救急車でパリへ戻ることに決まり、27日にブルトンを載せ、エリザとイヴシックが付き添った救急車はパリへ出発しました。かなり長い旅路です。三時間後、一度休息したときにはまだ正気だったブルトンですが、再び走り出したときには朦朧としてしまいました。

 午後の少し遅く、運転手は二度目の休憩が必要と判断した。彼はアンドレを見に来ると、外へ出て数歩歩きたいかどうか尋ねた。そうしようと、アンドレはほとんど介添えも要せず、再度、救急車から降り立ち、道路を横切った。私は彼のそばにいた。するとその時、彼は私を見つめ、こう尋ねたのだ。
 「ロートレアモンの本当の大きさとは、どんなものだろう?」
 この発言がアンドレが口にした最後の言葉なのか、私は未だに知らない。
 彼は西の方に振り向いた。その眼は、まもなく沈みゆく朱の太陽に注がれていた。太陽は、やがて地平線にわだかまる暗雲のとばりに姿を消すだろう。そして彼は、道路わきの傾斜した土手の大地に、じかに腰を下ろすと、沈黙したまま、傾きゆく太陽を見つめ続けた。私の記憶のなかに、この時の壮大な静けさが灼きついている。私のすぐそばで、すべてが静寂に包まれ、微動だにせず、一人の叡智ある偉大なインディアンが、眼前に広がる広大な空間を探るように観察しているのだ。
 私は、トワイヤンがここにいないことを惜しんだ。
 エリザといえば、荘厳なるアンドレの状況をまったく気づけないほどに、ずっと偏頭痛にさいなまれていたので、恐怖のあまり我を見失っていた。「かわいそうなアンドレ! 地べたにしゃがみこんで、なんて悲しそうなの! 何か敷く物でも持っていけばよかったのに!」。 

p101-102

こんな状態で走り続け、なんとかパリのフォンテーヌ通り42番地の自宅へ運び入れたものの、主治医の診察でラリボワジエール病院へ救急搬送され、そのまま入院ということになりました。エリザとイヴシックは自宅へ戻り、駆けつけた娘のオーヴが病院で待機しました。イヴシックはエリザの求めによりブルトンのアトリエに用意されたソファの上で例のオブジェに囲まれながら眠れぬ夜を過ごしました。

 朝の六時頃、電話が鳴り響いた。話し声で、明らかに病院からだと知れた。すべてが終わったのだ。エリザはまさにこの時、自分がここ最近、常に感情を抑えていた分、アンドレが心配をかけまいと彼女に病状をひた隠しにしていたことを初めて悟った。私たちは慌ただしく病院へかけ戻った。

p105

1966年9月28日早朝、ブルトンは亡くなりました。

 案じていた葬儀の日は、少なくともパリの群衆、なかでもアンドレに敬意を表しにやって来た多数の若者たちによって輝きわたった。ジュリアン・グラック、ルネ・アロー、ジャン=ジャック・ポーヴェール、エリック・ロスフェルド、マルグリット・ボネ、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、その他大勢の人々や、もちろん《カフェ》に集まるシュルレアリスト全員が参列した……。 

p105

ブルトンがパリ市街の西の端にあるバティニョル墓地に埋葬されたのは10月1日です。墓は盟友だったバンジャマン・ペレの隣にあります。平たい石の表面には《André Breton 1896-1966. Je chereche l'or du temps》と刻まれました。その文字と反対側に星型の石が据えられています。これについてイヴシックは次のように書いています。そもそもブルトンが見つけたものだったようです。

そのオブジェは、彼が詳しく語るところによると、一ヶ月前にドルドーニュ県のドンムで見つけたもので、おそらく古い煉瓦の装飾具だそうだ。彼が言うには、初めて見た時、彼が『狂気の愛』で語った《プラハの星型の城》をそこに見たように感じたという。私の方といえば、その星形の石をよく見ているうちに、突如、これこそがブルトンのアナロジックな真実の肖像ではないかという感じに打たれ、その劇的な力にとらえられたのだ。のちに、ブルトンの墓を際立たせることについて皆で相談した時、私はこのオブジェを墓石に据えることを直ちに提案することになるが、そのことを心の底から納得している。 

p82

私もバティニョル詣をしましたが、この星形は目立っていました。ラドヴァン・イヴシックのアイデアだったんですね。彼の仕事ももう少し知りたいものです。

ブルトンの墓
https://sumus.exblog.jp/13000205/

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