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厭、いや、油絵でなきゃいや。


野見山暁治『四百字のデッサン』(河出書房新社、1978年7月26日4版、カバー絵=著者)

架蔵の『四百字のデッサン』は4版である。今は河出文庫で読めるようだ。おそらくこの4版が出た直後か、少し後に、新刊書店で買って読んだのではないだろうか。古書でもとめたのではないことは確かだ。

心底から感心した。こんなふうに人物エッセイが書ける人が、しかも画家なのに、いたのか、という驚きがあった。小生自身もエッセイを書くようになったときには、まず『四百字のデッサン』みたいに書きたいと思ったものである。タイトルもいい。

何篇か心にに残る作品があるなかで、坂本繁二郎『私の絵 私のこころ』を読んだばかりということから、その皮肉の効いた描写が何とも言えない、エッセイというより小説ふうな「巨匠の贈りものーー坂本繁二郎」を紹介してみたい。

戦後間もない頃、外務省の高官が福岡へ赴任してきた。このエライ人の奥さんが小柄な美人で「マダム」と呼ばれていたのだが、マダムは急に坂本繁二郎に絵を習いたいと言い出した。八女にある坂本のアトリへご亭主や久留米市長などとともに車を連ねて訪問し、頼み込んだのである。

 目がショボショボとしてどうも冴えない。坂本先生というのは体も小作りだが顔も小さい。頭といったらいいのか、ともかく小さい頭蓋骨がそのまま乗っかってる感じだ。小さい家に住んで、近所の小母さんから回覧板の声がかかると、ハイ只今、とか何とか言って、よく見えない目で、小さい抽出しの中に判コはないかとかきまわす。これが坂本繁二郎なのだから巨匠としては始末が悪い。それから数年ののちに私が訪ねていった時でさえ、その村の店屋で聞いてもなかなか解ってはくれなかった。何でもお花の先生をしておられる坂本さんの御主人がエカキさんとかききましたが、その家だったらああ行ってこう行って、といったあんばいの教え方だ。

p60

マダムは自分の絵を坂本先生に見せた。坂本先生は「大変いい絵です」と言ったのだが、マダムは惨めな気持ちになり、突然泣き出した。《巨匠はしばらくはオロオロしておられたが、泣きじゃくっている彼女の肩をやさしく抱きおこして、絵が出来たら又もっておいでなさい》と送り出したというのだ。

マダムは熱心に絵を描き出し、坂本先生の元へ(福岡の街から五十キロも離れている道中を)通い始めた。絵も変わってきた。マダムは思い立って個展を開く。坂本先生はバスと電車を乗り継いでわざわざ見に来たという。

また、坂本がアトリエに篭って出てこないという事件があった。夜になっても家に帰らないため坂本夫人が心配して迎えに行っても中からは応答がない。翌日、マダムが訪ねて来た。困っている夫人の話を聞いてアトリエへ飛んで行った。

早速マダムはアトリエに走ってゆき、センセイ、センセイとアトリエの戸をたたいたが返事はない。とうとうマダム悲しくなって泣き出した。そうしたらね、先生が戸をあけて出てこられて、もう泣きやむんですよ、って戸のところに坐りこんでる私を抱きおこして下さったの。お伽話に出てくる、欲のないくせにいつだってうまい汁をすうお爺さんに、かぐや姫をうばわれてしまったような口惜しい思いで私たちは聞いた。

p62

ところが、御主人のストックホルム赴任にともない、マダムは福岡を離れることとなった。坂本先生のところへお別れの挨拶に出かけた。野見山はこのときマダムと同行したのだそうだ。三人で歩きながらその話を切り出した。すると坂本は足を止め「ストックホルム、それは遠いところ」とかすかにつぶやき空を見上げた。

それからまた畔道を歩きはじめた。お別れのしるしに、私がいま創っている版画のシリーズを持ち帰っていただきたい、と老人は申し出た。版画はいや、厭、いや。首に巻きつけていたスカーフを手に持って彼女はとつぜん体をよこに振りはじめた。老人がなんとなだめても、その畔道で動かないのだ。厭、いや、油絵でなきゃいや。とうとう今、描いている油絵の十号をくれることになってマダムはようやく機嫌をとりなおした。

p63-64

なんともリアルだが、本当にこんなおねだりがあったのだろうか。

いがぐり頭の坂本繁二郎が、空を見上げたまま、いつ遠いところへ発つのですかと聞き、その飛行機はこの空の上をとぶだろうかと質し、その日はこの畔で、あなたと最後のお別れを致しましょう、と決意をこめたように彼女に告げたのを、私は芝居の幕切れのように聞いた。

p64

正確にはいつ頃の話なのか? 冒頭に《マッカーサーの支配下にあった》とあるので昭和26年4月以前のことは間違いない。マダムが眼病に悩まされていた坂本を引っ張り出して九大病院で診察させたとも書かれている。『私の絵 私のこころ』の年譜によれば、昭和25年2月に共同性内斜視の手術を受けたから、おそらくその前後だろうと推測できる。

なお、野見山は昭和27年に妻とともに渡仏しており、その滞仏の様子については『パリ・キュリイ病院』(1979年、筑摩書房/2004年、弦書房)で詳細に描かれている。

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