2022/11/07

お金がないので民間の奨学金に申請しようとしています。そのために将来の目標について作文を書く必要がありここ数週間ほど考えていました。ここに書いてるようなこと書いたら落ちるから(!?)書かないけど、こねこねくるくるした気持ちや決意は溢してもいいかなあ?と思ってひさしぶりに日記を書きます。変な話だから面倒くさいなあと思ったらそっ閉じしてね。

思惑はつねに表裏の間をシーソーみたいに揺らいでいるのに、言葉にするときは必ずどちらかに腰を下ろす必要があります。シーソーの揺らぎを正しく表現するには反対側にも座らないといけないけど、それを急ぐと一方の思惑だって正しく表現されない。伝わらない。言葉が持つ意味のベクトルを連ねて思惑の曲線に近似しようとする難しさに気を取られていたけど、どうやら思惑は曲線じゃなく曲面になることもあるらしい。信念を言葉で表明してみんなを手助けできる精神の成熟というのは、ずいぶん先にあるみたいです。
信念をうまく表現できたら、信念が僕に与える使命の実現に人生を費やしてそれを半歩進められるような気がします。もちろんそれを音楽でやったって映画や小説でやったっていいけれど、盲目な確信の手助けなしでこれらから信念の共鳴を感じるのはかなり大変です。盲目な確信は人を浮世離れさせる劇薬だから、なるべくそれを抑えられる言葉でこれを実現できたらいいのではないかとも思うわけです。
信念を部分的に代替する言葉や、信念が生み出す現象を表す言葉はたくさんあっても、それ自身を表すのは途方もないくらい難しく感じます。そもそも、まだ見つけて間もないそれをうまく手懐けられていないんでしょう。信念は散らかった部屋の隅に隠れていました。個人主義的な社会制度、成果主義、ホモソーシャル、若さが放つ険しい批判、享受する対象の構造たち。みんな手を広げて行手を阻むからって意気消沈していたら、ますますその様子がわからなくなる。どれも正しく整理できたわけではないし、なにがなんだかわからないものだってまだいっぱいあります。ひとまず目が合ったその信念のおかげで毎日たのしく過ごせているけど、それが何かという問いの根本的な答えはまだみつかりません。
どこかに苦しんでいる人がいて、もしかしたらその人の苦しみが、信念が僕に与えてくれる優しさや思いやりや無償の寛容によって和らいだりするかもしれないだろうからと、そしてそれを心の底から望んでいるので、こっそりこうして日記を書いているわけですが、この気持ちもすこし言葉を間違えてシーソーをガタンと鳴らしてしまうだけでエゴに早変わりして人を傷つけてしまいます。信念を振りかざして人にマウントを取る悪魔になってしまわないように、言葉をうまく取り扱えるよう真剣に訓練を重ねる必要があると日々痛感してやみません。そしてそれがうまくいって、たまたま出会った人のうち必要な人が必要なだけ、愛による慰めや励ましを共有して救いを感じられるようになることを心から夢みています。

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