見出し画像

【Twitter5000日記念】もう二度と学生時代の話はしない(その2)

 その1のつづきです。

■委員会生活を終わらせるぞ!(2010年9月〜12月)

 だんだんと「ツイッターに真面目なことを書かないぞ!」みたいな気持ちが出てきますが、どうしようもなく愚痴を吐き出したりもしていたようです。ただ、とりあえず腹はくくってこのときの学園祭までは続けることにして、模試の採点のバイトで貯めたお金と20歳のお祝いを全部突っ込み、学園祭当日の映像演出のためにMacbook ProとAdobe一式を買いました。中学時代にも少し触ったことはありましたが、20歳で正式にMacデビューしたということになります(Twitterに写真をアップする習慣がほぼまだなかったので、ヌルッとした感じになっています)。

 また、この頃試験の結果が出て、かなり危ない橋を渡りましたが経済学部に進むことができ、10月の新学期からはめちゃくちゃ真面目に授業に出始めます。全然出られていなかった1限からだいたい真面目に行って、週16コマをフルで(木曜は1-6限とかでしたっけ)出ていました。
 ただ、学園祭当日まで1か月を切ると、どんどん作業が増え、労働力が足りなくなっていきます。空きコマの人を一日中動員して朝から晩まで当日立てる立看板(に貼るデカい紙を貼り合わせる)作業をするみたいな、とにかく誰かが動いていないといけない、さらに執行代が誰かひとりでいいから仕切っていないといけない、みたいな時期で、僕は特に責任のない肩書きや立場だったはずですが、ひとりの委員として直面してみると相当な危機感がありました。

 だいたいは世捨て人みたいな人々が上層部をやっている(そして留年をしたり、縁もゆかりもない学科に振り分けられて行方不明になったりする)委員会だったはずなのですが、同期はみんな僕よりずっと優秀で真面目でしたので、みんなちゃんと授業に行っていました。そのような状況のなか、細かいきっかけは忘れましたが、11月に入った段階で僕はいっぺんにすべての授業に出なくなった、と記憶しています。

 委員会室に常駐して、キャパオーバーしている後輩(ときどき同期)の仕事を一日中手伝って、家に帰ってから自分の固有業務にようやく手をつけ、眠くなって途中で寝る、みたいな日々でした。どうしようもない感じのまま当日を迎え、人知れずボロボロになっていましたが、別に僕が失敗したところで誰も困らない、どうでもいいようなことばかりしていたので、身内にもあまり誰にも気づかれないまま終わりました。
 もう少しだけ具体的に書くと、僕がやっていたのは主に①ステージイベントの映像演出、②最終日のフィナーレで流すメモリアルムービーの即日編集、③当日の記録写真撮影の統括、④案内所に設置するモニターの運営、⑤毎朝の開門セレモニーの運営と司会、だったのですが、①は別に映像がなくてもだいたいイベントが回る感じにしていたので設置が間に合っていなくても誰も気づかず、②は一応完成しましたがドデカい編集ミスをしてしまったものの別に誰も困らないし、③は誰にでもできる簡単な仕事だし撮り逃したものがあっても誰も責めないし、④は後輩に丸投げしていたし、⑤はまあ人が少ない時間に適当にやっていただけで、とにかくまあどうにでもなったんです。

 ともあれ学園祭が終わったので委員会から引き上げようと決め、先輩たちによる次の5月の学園祭への勧誘が始まっていましたがすべて無視して、後輩への引き継ぎの文書すらまともに書きませんでした。撮った記録写真の整理と分類だけは細々と続けていましたが、だいたい夜中にお酒を飲みながら(家で飲酒する習慣はこのときに始まりました)やっていたので途中で寝てしまい、遅々として進みませんでした。学生も来場者も委員もみんなが楽しそうに見えて、1枚1枚に目を通しながら、やりきれない気持ちでした。

 それでも委員会室に通っていたのですが、それは僕は同期のなかでひとりだけ、新歓活動のほうの委員会の「2年目」をやることになっていたからで、その体制づくりや始動の手伝いをしていたからです。これがあるので学園祭をすんでの所で途中で辞められなかった、というのが本当のところです。
 「2年目」のメンバーは、執行代扱いの後輩にアドバイザー的な距離感でかかわりながら、経験がないと難しい(とされていた)大学当局との折衝を行い、入学諸手続などの当日まわりに関しては上級生(僕から見て同期・ひとつ上の先輩)にコンタクトを取って当日ヘルプに来てもらう手配をする、という感じのことをするポジションでした。責任がないとはいいませんが、抱える業務は多くなく、最後のご奉公をしながら余生を過ごす、みたいな気持ちであったと記憶しています。

 新歓活動のほうの委員会を、先ほどは「関連団体への出向」と表現しましたが、本当に「(意義はあるけれども華やかさはない)誰かがやらないといけない罰ゲーム」のようにとらえられている節があり、学園祭に後ろ足で砂をかけ、ここまでで委員会生活を終えます、という態度は、先輩からも同期からも奇人のように映ったようです(「2年目」の新歓まで委員会に残ったくらいのコミット率で続けてきたんだから、学園祭を続けたほうがいいでしょう、という見られ方でした)。
 誰にもわかってもらえないし、わかってもらえなくていい。当日ヘルプの依頼に応じてもらえる程度のつながりは保ちつつ、委員会室の人間関係からフェードアウトしていきました。黙々と事務作業をしながら、先々に向けての話が盛り上がっている様子のときは、外に出て自販機で缶コーヒーを飲む。それでも話が終わらなければ黙って出ていく。そんな感じでした。

 この時期からしばらく、ボカロ曲をかなり聴いていた時期になるのですが、この3曲はちょうどこの頃にめちゃくちゃ聴いていました。
 「カシオペイア」はおそらく人生でいちばん回数を聴いた曲です(iTunesの再生回数のみで5000回くらい)。動画内で使われた京王井の頭線明大前駅ホームは、まさに日々乗り換えで使っていた場所の情景だったこともあり、愛着がありました。「サクラチレ」は、桜の花に嫉妬する沈丁花を描いた曲なのですが、新入生を迎える仕事を暗い気持ちでやっている自分と妙な重なり方をして、中二病的な感情を高める方向に作用しました。「eve*2」はクリスマス「イブイブ」に浮気のデートをするカップルがモチーフの曲で、いまでも毎年クリスマス時期に聴き直すほか、いまでもなんとなく僕の人生観の底を流れているような気がします。


■地面が揺れた日(2011年1月〜3月)

 孤独な立ち回りにはなりましたが、新歓のほうの委員会同期には寄せ書きをもらったりして(同期から寄せ書きをもらうなんて転校するみたいですね)、自分のなかでいろいろと区切りを付けて前に進み始めます。

 地元に友達が0人なので成人式には行かずに、大学当局との折衝の資料をまとめたり、キャンパスが変わるので本郷近辺で家探しをしたりしていました。ラッシュの京王線が嫌すぎて午前中に大学に行けなくなった反動で、大学まで徒歩圏内の根津に居を構えることになります。

 また、この時期のTwitterはまだ頭のおかしいネタpostをしている人ばかりがたくさんいて、あとは孫正義と茂木健一郎くらいしかいないインターネットだったのですが、今は亡きふぁぼったーで赤ふぁぼを連発していたいわゆる「ネタクラスタ」のオフ会に飛び入りするという痛ましい事件を起こしました。フォロワー3ケタ台後半がボリュームゾーンくらいの集団でしたが、そこに僕の好きだったインターネットのすべてがあるように見えました。その後かかわりを深めた人は誰もいませんでしたが、いまでもTLでお見かけすると嬉しくなる程度には思い出深い出来事でした。
 ネタクラスタ憧れ(短くて呼びやすい、ひらがな・カタカナで数文字程度のHNが多かった)があったのと、リプライでリアル知り合いから名前を呼ばれるのが嫌で呼びやすいものを、と考えたことが重なり、Twitterネームを「気象情報」から「きしょう」にこの時期に改めた、と記憶しています。「きしょうさん」の誕生です(「気象情報」はペンネームだったので、文芸サークル界隈などで「気象くん」「気象さん」と呼ばれることがそれ以前に絶無だったわけではありませんが)。

 1月末に引っ越しをして、情報学環教育部(大学院付属の教育機関で副専攻のような位置づけ、学内生は学費が免除、社会情報学が主たる領域とされていたが、旧新聞研究所の流れもくんでおり、マスコミ・広告関連に興味のある学生が多かった)の研究生入試にも出願、委員会の仕事の合間を縫って2月半ばに入試を受けました。その結果が出るまでの約1か月を待ちながら、その間には経済学部の期末試験があり(授業に出ていなかった時期があったので大変でした)、委員会室から遠ざかっていきました。
 「明るい気持ちだ!」という感じでもなかったように思いますが、暮らしを整理し、人生を自分で制御して、やっていけるのかもしれない。少しずつそう感じるようになっていました。

 入試の見回りには駒場と本郷両方に参加し、合格発表の見回りにも参加しました。後輩たちに囲まれて、なんとなく慕われている気分になりました。1年生なので仕事に粗は目立つ印象でしたが、だいたいそんなものでしょう。OB(僕の同期)たちが口うるさい小言を僕のほうに入れてくるので、なんとなくいなしていました。
 灰色の駒場から去ろうとしていた時期。なんだかんだでうまくやれていました。合格発表が終わって、大学当局との折衝もある程度まとまっていたので、あとは新入生を迎える4月頭の数日を乗り切ればおしまい。大仕事っちゃ大仕事だけど、今さらジタバタすることもないだろう。そう思っていました。

 その翌日が、あの2011年3月11日でした。

■責任は取るから(2011年3月〜4月)

 東京23区は震度5強。自宅もだいぶ揺れたという感覚がありましたが、ほぼ被害はありませんでした。携帯はつながりにくくなりましたが実家に無事を伝えることもでき、文京区だったのでその後の計画停電とも無縁でした。

 前述のように委員会関係では少し間が空くという時期だったので、家から出る用事も特になく、マスメディアにちょっと興味のある学生のスタンスでテレビとTLを眺めたり、節電と称して寒くて暗い部屋でこたつにもぐりこんでラジオを聴いたりしていました。12日には大学入試の後期試験を受けて足止めを食らっていた高校の後輩に会ってお茶をするなどしていたようです。
 Twilogを追っていくと13日くらいまで危機感が薄い様子で驚くのですが、この日あたりでインターネット越しにヤバそうな雰囲気を感じとったのか(委員会の動きはWebシステム、委員ポータルWiki、委員どうしのメールシステムなどがあり、リモートでほぼつかむことが可能でした)、14日に自転車をこいで駒場キャンパスに向かいます。電車は不安定ながらも動いていたはずなので、なぜ自転車だったのかはよく思い出せませんが、例えばさらに大きな揺れが続いたと想定して、自力で駒場までたどり着けるようにしておきたい、という思いもあったのでしょうか。

 10時頃に家を出て、昼前には着いていたと思います。勝手口から委員会室に入ったら、受付でクラスオリエンテーションの責任者と学生支援課の職員が話していて、まさにオリ合宿中止の判断がなされる瞬間でした。現在はコロナ禍があってどうにもならなくなっているんじゃないかと思いますが、当時のオリ合宿は毎年のようにトラブルが発生しながらもなんとか続けてきた、東大の伝統といえる学生主体の大規模な新入生歓迎イベントでした(なんか名前が変わったんでしたっけ?)。
 僕は上級生ですが執行代の立場ではないので、立ち会っていたとしても判断を下す身ではなかったと思うし、結果はまったく変わらなかったと思いますが、自分が危機感なくのんびりしていた数十時間の間に、後輩が悩み抜いてその判断をしたのだと思うと心が痛みました。
 当局から圧がかかったという感じではなく、委員会として判断したのだということを確認して、ここから何ができるかを考えよう、と伝えました。先輩面している自分が白々しくて嫌になりましたが、少しでも動揺を収拾するために、そうするしかありませんでした。
 そこから約3週間くらいでしょうか。僕はもう一度、最前線に立たされて「委員会」をやることになります。

 スマートフォンの普及率もまだまだ、LINEはまだサービスを始めていないような時期で、あらゆるメーリングリストにチェーンメールまがいの安否確認が回ってきていました。テレビをつければ津波の映像で、福島第一原子力発電所では水素爆発が起きていたタイミングだと記憶していますが、とてもそれどころではなくなり、一切の報道に触れなくなりました(これは本当なのですが、あの時期えんえん流れていたという「ぽぽぽぽ〜ん」のCMを僕はいまに至るまで一度も見たことがありません)。
 学園祭の時期以来バイトも全然できていなかったのでお金がなく、根津-駒場間の往復620円の交通費が相当な負担でした(ひと月でいいから定期が欲しくて「通学証明書出ませんか?」って学生支援課で聞いたら、「課外活動はダメです」って言われました。あれ顔見知りじゃなかったらいけただろ)。行きは早く着きたいので渋谷-駒場間も井の頭線に乗っていましたが、帰りは120円が惜しくて歩いていました。節電と自粛で真っ暗だった23時台の渋谷の風景はいまでも忘れられません。歩いていたらメトロの終電を何度も逃して、そのたびに山手線で帰っていました。誰もいない山手線の車両、ガラガラの上野駅。上野もやっぱり暗くて、不忍池のベンチでくっついている(「あの人ズボン下ろしてない? 大丈夫?」みたいに思うほどに)カップルの様子だけに、かろうじて「上野の夜」がありました。
 後輩にも同期にも混じれなくて一緒にごはんを食べる人がおらず、震災のせいか春休みのせいか、確か生協もほとんどやっていなくて、バタバタしていたら朝も昼も食べそびれるような日々でした。24時半くらいの富士そばしのばず店で食べるカツ丼とかけそばのセット(ハタチの胃袋!)だけで一日をやっていました。

 この頃の自分の温度感はあまりpostから読み取れません。具体的なことは書けないし、真面目なことを言う気にもなれなかった感じでしょうか。後輩たちにもおおむねpostを見られていたので、「疲れた」みたいなこと以上は書けなかったのだと思います。

 当時ややこしかったのは、「2年目」の立場の前任者というのが僕にもいたわけですが、その人と連絡がとれなくなり、4月上旬の「当日」の時期に関する引き継ぎが受けられていない状況にあったということです。資料を読み漁ってどうにかするくらいの気持ちでしたが、そこに震災の状況が重なって、一気にどうにもならなくなってしまいました。
 ヤバそうな感じを察してもらったのか、「1年目」の委員長としての前任者に声をかけてもらってアドバイスを受けたのと、前々任者にあたる人につないでもらって(「1年目」に委員長からの「2年目」、という同じ経歴の方でした)、聞けることは聞いた、ということがこの時期にありました。
 僕も僕で青臭かったので、これは通例に反するのですが、自分より上の代のOBは当日呼ばない(現役以外の手で執行されるものは最小限にしたい)みたいな構想を、震災前には練っていました(あとは、僕は先輩との関係もよくなかったので)。しかしこれらの出来事を経て、ひとつ上のOBには頭を下げ、ほぼ全員に当日来てもらうことになります。前任者に「呼んだらみんな来てくれるから気軽に呼びな!」とアドバイスを受けたので断りづらくなったという面も正直ありましたが、当日起こりうるイレギュラーに対処できる自信がなかったという現実もまたありました。

 情報学環教育部には4倍? くらいの倍率をくぐり抜けて合格しましたが、顔写真を撮って入学手続きをしに行く時間がとれなくて危うくポシャるところでした。結局なんとか手続きはできましたが、慌てて学籍届を記入したらなぜか性別欄の「女」にマルをつけてしまい自分でズッコケてしまうという事件がありました(いまはもう「学籍届に性別欄があった時代もあったんだね」というような世の中になりつつあるんでしょうか)。
 経済学部には4月1日に学生証を受け取ったりする手続きに出向かなければならないみたいなことがあったと思います。結局震災の混乱で学期の始まりが5月にずれこみ(学部によって対応に差があり、ずれこんだのは経済学部と工学部だけであったと記憶しています)ましたが、結局このへんの手続きがどうなったのかというのは覚えていません。
 この学期開始時期の決定が全学的になされたのが3月25日のことでした。大学当局には少しだけ食い込んでいたつもりでしたが、この日まではまったくどうなるかわからないという感じで、一般学生と同じタイミングで知りました。そしてそれは、「予定通りの日程で新入生が入ってくる」ということが決まった、ということでもありました(1か月くらい新入生が入ってくるのが遅れるみたいなことがあったらおじゃんなので御免被りたいが、それはそれで立て直す時間がとれるということかもしれない、みたいな思いも少しあり、両面の心づもりをしていました)。

 オリ合宿は中止になりましたが、「それ以外は何も変わらないと思って準備をしてください、イレギュラーの部分はすべて自分が対応します」と後輩たちに伝えて(そうでなくても繁忙期で後輩たちはいっぱいいっぱいだったので)、いろいろなものに対処していました。あまり大言壮語的にいうのも気が引けますが、背負っていたものが多すぎて、そしてそれを誰とも分かち合えなくて、正直潰れかけていました。
 でも、オリ合宿の中止までは致し方なかったとしても、新入生どうし、あるいは上級生のつながりをつくらなければ、自分のような上京組はすぐ転んでしまう。あるいは、委員会に登録していたサークル等諸団体は400ほどあって、新歓活動の機会がスムーズに与えられるかどうかは団体の生き死にに直結する。「委員会でこんな仕事をしているんだよね」と友達にも言えないような、後ろ暗い気持ちでやっていた活動でしたが(例えば「うちのサークルを優遇してくれ」みたいなことを本気で言われたら縁を切らないといけないので)、たまたま委員会に流れ着いただけのノンポリの学生が、学生の自主的な活動を支えていることに価値を感じてもいましたから、潰れてもやり遂げる、という思いでした。
 それなのに、このタイミングで新たに①「節電が社会的要請であるから課外活動での教室使用は認められない」②「放射性物質に対する新入生・保護者等の不安に寄り添うため、新入生を屋外に長時間とどめることはあってはならない」③「震災で多くの人々が死傷し、自粛が求められている情勢のなか、近隣住民への心情的配慮のため、キャンパスを賑やかすようなことは避けるべきである」みたいなことを「大学(教養学部)当局の見解」として内々に伝えられ、あまりの言い草にけっこう本気で怒っていた覚えがあります(文言は丸めていますが、「近隣住民への心情的配慮」については向こうの言い回しで、やたらと鮮明に記憶しています。僕が30年以上の人生で出会ったなかで最も嫌らしいフレーズかもしれません)。

 ただ、それ以上に当局とのパイプになってくれていた学生支援課の職員が怒ってアツくなっていて、実務に当たっている後輩たちはめちゃくちゃ動揺していて、しっちゃかめっちゃかすぎて僕自身は一周回って冷静になっていた部分もありました。「君たちの不安や怒りを抗議文として委員会名で発信してほしい、僕たちが学部長まで必ず持っていくから!」と職員さんが大真面目にいうので、「自分たちはあくまで学生として自主的な活動をやっているだけで、(キャンパスは学生のものでもありますが、それでも)大学の敷地や施設を借りているという立場でしかなく、委員会としては抗議をする筋合いはありません。ただ、学事日程などの情報が下りてこなくて困っているのは確かで、それにあわせて新歓活動をすることについては折衝をへて合意があるはずなので、まずは『公開質問状』という形で出すことにします」みたいな趣旨のことを言って、逆になだめるみたいなことになっていたのを覚えています(「公開質問状」とは題するがそれは単にスタンスの問題であり、学生の公益に資する委員会の立場として秘匿するようなつもりはないが、別に内容を学生に周知をするようなことはせず、結果的に委員会と当局の間でのみやりとりを完結させる、という出し入れを、直感のみでやりました)。
 しかし、この3月25日に学事日程が出たタイミングで前述の①〜③を伝えられ、それを事実上「すべての新歓活動の差し止め要請」と受け止めたので、さすがに認容できないし、そもそも学生が自主的にやっている活動なのだからそうした筋合いはないのでオリ合宿以外は原則決行をする、その点については一切揺るがないが、「このような意義があるから我々はそれを行うのだ」ということについては伝えさせていただく、というスタンスで、誰にも相談しないでA4・2枚程度にしたためたのが、上掲ツイートで言っているところの「書類」です。「各種オリエンテーションに関する委員会の見解」。10年以上経ったいまでも鮮明に覚えています。

 当局からのアクションはなく、ただ「公開質問状」と「委員会の見解」を出すにあたって、施設貸出の実務を担っている学生支援課には「地震による損壊がない施設は18時まで使用可(上から何を言われても現場レベルの判断で使わせる)」と言質を取っていたので(「18時撤収厳守」が「節電への対応」ということになっていましたが、あまりうるさく言っていないだけで、もともと18時終了が目安だったはずです)、後輩たちには「特に何も気にしなくていい」と改めて伝えてすべてを続行してもらいました。ただ、音楽系のサークルなどが中心に行う予定だった屋外でのパフォーマンスによる宣伝活動だけは控えてもらうようにお願いし、先述の①③にはギリギリのラインで一定の対応をしました。②については入学手続き前の新入生を屋外に行列させることはやめ、大講堂にいったん全員入れて学部職員がピストン輸送する(!)みたいな対応がなされることになり、学生支援課と僕個人の間でそのような貸し借りをしながらなんとか当局の意向をかわしていく感じの進め方になりました(完全に突っ張って決行することも可能だったでしょうが、翌年以降に禍根を残してしまうと元も子もないし、自分は立場上責任をとることもできないから、という思いがありました)。
 もう3月が終わる、月が改まればその日から新入生が入ってくる。ここまで切り抜ければもう時間切れ。施設から締め出すような実力はあちらにはないし、最低限の譲歩はしたから寄り切れる。守り抜いた、と思っていました。

 結論をいうと、僕は最後の最後でハンドリングをミスりました。たぶんこの3月30日だったと思いますが、学生支援課のほうにもうちょっと圧力がかかったっぽくて、「入学手続き後のテント列についてはもういいけど、(主に前述の②③の観点から)テント列を抜けた後の勧誘を抑制し、新入生をスムーズに帰せ」という趣旨のことを言われて、「1団体2人みたいな感じで制限してくれない?」という強めのお願いが僕のところまで下りてきました。
 インターネットにいる東大生が全員ボロクソに言うことでおなじみのあのテント列ですが、あれにはそもそも好き勝手にいろんな団体がテントを立てて新入生を捕まえまくって大混乱・大問題になったので、すべてを委員会が調整してあの形に仕立てる、という成立過程だったと聞いていたので、必要悪としてあれは絶対やる、というのは死守ラインでした。それを前提にしつつもうひとつの論点として「新歓期にはカルト団体による危険な勧誘が多発するので善良な学生が形成する勧誘列によって新入生を無事に駒場東大前駅まで誘導する」みたいなことを大真面目に押し込んだ、という経緯がありました(ちなみに、いま世の中で話題のなんとか教会の話でもあります)。
 そうした経緯なので、テント列以外の勧誘にはそもそも一切関知しておらず(繰り返しになりますが、委員会はことサークルの新歓に関しては混乱がないように調整しているのみという立場だったので、キャンパスで善良な学生が常識の範囲で新入生に声をかけることを妨げる道理はない)、「そんなことは言えない」と押し返そうとしました。しかし、向こうも向こうでギリギリの調整で焦っていたからか、珍しく一切の譲歩を引き出せなかったと記憶しています。それでも突っ張る、という選択肢もありましたし、なんならそちらをとることが筋であったともいえたのですが、僕にはできませんでした。
 (東大には「サークルの公認」みたいな制度はなく、新歓活動のための登録、学友会・学生会館への登録などが一応の対外的な地位保障としては機能していましたが大学当局との直接のつながりはなく、新歓を行う団体に対して発信するためのチャンネルが学生支援課といえどもなかったため、こちらに頼るしかなかった、という事情があったということは当時から理解していました。)

 唯一の勝ち筋は「わかりました」と伝えて引き取った上で実際には何もしない、ということだったと思います。11年以上が経過し、さすがに当時ほどに傷の痛みは感じなくなっていますが、いまでもあれだけは後悔し続けています。でも、あの日あの場で即座にそんな判断はできなかったかな。僕も僕で焦っていましたし、それ以上に心身ともに疲れ果てていました。
 トボトボと委員会室に戻り、サークル新歓の担当者に頭を下げました。君たちがつくって守ってきたルールに手を付けることになって申し訳ない。どうすることもできない。これから全団体に向けて僕の名前でメールを送る。君たちの仕事は変わらないと思ってほしい。すべての責任は自分にある。
 「いまさらそんなこと言っても真面目に守る団体はいないだろう」という予測はありましたし、「実質的に取り締まったりすることは不可能だ」と学生支援課にも伝えてありました(それでもいいから、と押し込まれました)。とりあえずはとにかくメールを送って、無事に時間が過ぎることを祈るしかない。そんな思いでした。
 祈りはあまり通じず、だいたいの団体は読まずに無視してきたのですが、真っ当に読んだ少数の学生に対しては、普通に炎上みたいなことになりました(現在みたいなSNS時代じゃなくてよかったと、いまとなっては思います)。

 直前の準備で確実にいっぱいいっぱい、委員会もサークルもそれどころではなかったようなタイミングだったかと思いますが、ダイレクトにけっこう「お叱り」を受けました。自らの責任として、すべてにひとりで対応せざるを得ませんでした。発信したメールがどのような文面だったか、細かなところはもはや覚えていませんが(僕の真っ当な感覚なら「当局の要請があり……」みたいなことは書かない気がするが、あの状況でそれができていたかどうかは自信がない)、「大学当局が言ってきたことをそのまま下ろしてきたのではないか、学生の利益を代表しない委員会に正統性はない」みたいな角度から抗議が来たり、純粋な「えっどういうこと?」「ひとりひとりチェックするんですか?」「いまさら言われても困ります」みたいな問い合わせも、1日程度しかなかったはずですが数件は来たりしていて、対応に追われました。「テントを出せるような強い運動部のことしかお前らは見えていないんだろう」という趣旨の、匿名の抗議電話が来て、1時間以上罵倒されたのはさすがに堪えました。
 でも、すべて真っ当な反応だったと思います。繰り返しますが、勧誘活動の成否は団体の生き死にです。正しい判断ができなかった僕の責任だったというよりほかありません。あの程度で済んでよかったともいえるかもしれません。当日は委員会本部みたいなところに詰めていたので直接見たわけではありませんが、平年並みの勧誘が普通になされていたようで、そのことをとがめられることはありませんでした。

 長く書きすぎてしまいました。よく覚えていませんが、始まってしまえばすぐに終わったのだと思います。大きなトラブルはなかったと思いますが、賑わいを見て安心したとか、新入生の笑顔が嬉しかったとか、そういう記憶や感情ももう残っていません。
 入学手続きが2日間あり、(オリ合宿があるはずだった)クラスオリエンテーションの期間を挟み、2日間のサークルオリエンテーションがありました。前述の通り屋外音楽演奏を控えてもらったのと、体育館のガラスが割れていて使えなかった程度で、おおむねどうにかなったんだったかな。

 「禁酒」というのはただの願かけで、新歓期の学生はどうしても飲酒のトラブルを起こしてしまうケースがあるので、それだけはどうか……という気持ちでやっていました。大多数の新入生がまだ10代というなかでしつこく注意喚起はしていましたが、例えば成人済みの学生に禁酒をさせるような強制力はありませんし、祈るくらいしかできることはありませんでした。吹けば飛ぶような委員会で、吹けば飛ぶようなことをしていたんだな、と思います(震災による顛末も含めて)。
 あらかた落ち着いた日の夜、同期3人に駒場のOaksに連れていってもらい、労をねぎらってもらいました。確かに同期で、確かに3人だったと思いますが、その場にいただけでそこまで近しい面子だったわけでもなく、誰だったかはぶっちゃけはっきりとは覚えていません。
 ただ、僕のぶんの会計は払ってもらったということと、いつも通りジンバックを飲んだということと、「僕が大変だったことなんて全然わかってないくせに」と腹のなかでは思っていたはずなのに、お疲れさまと言われたら涙が止まらなくなってしまったことは覚えています。

 授業開始が延びていたので、実家に帰りました。忙しさから連絡もあまり返せず、親に心配をかけていたからというところもありましたが、何もかもにくたびれて東京から離れたかったというのが正直なところでした。
 急に思い立ったので松山までの夜行バスがとれず、飛行機や鉄道で帰るようなお金もなかったので、大阪まで夜行バスで行き、京阪電車で大阪〜京都を一日観光して、その日にまた夜行バスに乗って松山まで、という経路で帰りました。ひとり旅の習慣はこの日から始まり、その後につながっていくことになります。
 (twitpicのリンクが切れていますが、アドレス直打ちで一応写真は見られます。)

 また、この直前には、何曲か前掲したデッドボールPの「デPフェス!」に参加しました。3月のバタバタのなかでチケットが当選したのにキャンセルしてしまい、でも「こんなことまで委員会のことに妨げられたくない」と思い直して、一般発売でチケットを取り直した記憶があります。初めてのライブハウス、オドオドしながらワンドリンクをオーダーして、オールスタンディングのいちばん後ろで右腕をガンガンに振りました。
 大好きだった「椿の花」に加えて「サクラチレ」もやってくれて嬉しかったのを覚えています。「サクラチレ」は確かCDへの収録がない程度の、相対的にマイナーな曲だったと記憶していますが、ちょうどよい季節だったのだと思います。
 満身創痍でしたが、桜の季節を無事に迎えられたことを嬉しく感じていました。ライブハウスを出たところ、高円寺の公園でベンチに腰かけて、何かから自由になったような、ようやく東京暮らしが始まったような、そんな感覚に浸っていたことを覚えています。

 (アンコールの「曾根崎心中」が良すぎて、大阪に着いて最初にお初天神に行ったのでした。いまでも、梅田で時間ができると訪れる場所です。)

--

 つぎはその3です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?