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「愛するということ」 | エーリッヒ・フロム

フロムの「愛するということ」という本を読んだので、その書評。要点だけささっとまとめて、感想をかく。


まず、この本は「愛する技術」について論じた本で、他の本と違って「どうやって愛されるか」という本ではない。

この本では、愛について「共棲的結合の愛」と、「成熟した愛」に分類している。

「共棲的結合愛」とは、依存関係が存在する愛。それは例えば、母親が子供に対してかける愛も、実は自分がいないと生きていけないという支配による愛(母性愛)だったり、仕事における価値と期待の投下関係であるような愛。

また、その愛でわきでる感情は、羨望、嫉妬、情熱といった、外界から促されて生じる「受動的な感情」だとフロムは論じる。

一方で、成熟した愛は、とにかく与えるもので、相手に関心を持つことのよう。相手の人間性の秘密への探究心のようなもの。「能動的な感情」だとフロムは論じる。

愛する技術

最終章で、愛する技術について語っているが、以下4点が重要。

①規律
②集中
③忍耐
④(愛する技術獲得への)関心

特に、この中の「集中」で語られていたことが、現代人は「孤独」を意識的に選べないので、様々なノイズで自分との対話ができなくなっている。その結果、孤独が耐えられない状態になり、自分の感情を見つめ直す機会が減ってきている。

では、孤独に耐えられないとどうなるか。それは、自分自身の感情がみられなくなり、世界がバイアスのかかった世界に見えてしまう。これがナルシズムな愛。

極端な例だと、精神病患者のように、自分がそうあって欲しい世界(欲望の世界)でみてしまったり、あるいはそうあっては欲しくない世界(恐怖の世界)を避けるように、世界を歪めてみてしまう。それが人との関係にも出てきてしまうのである。

フロムは、「愛すること」は技術であり、最後には愛する技術とは「世界を客観的に考える能力」と言い切っている。そしてその客観性を得るためのスタンスとして、「謙虚であること」と言い切っている。

感想

一人でいる時間が取れないぐらい、周りには人がいて、「完全な孤独」という空間は、意識しないと得られないのかもしれない。

この本を読んで、ふと思ったのが、完全に能動的に文章を書いたのは、久しぶりだったということ。

自分が書きたいことではない、他人が本当に欲しがることを考えて「マーケットイン」な思考で、ずいぶん長い間文章を書いてきたような気がする。

もともとは、プロダクトアウトな記事を書いていた。「読みたいことをかけばいい」に近い発想。特に責任がある立場になればなるほど、プロダクトアウトってやりにくくなる。

そう考えると、現代人の生き方って、マーケットインな考え方なのかもしれない。気に入られるコンテンツのみを発信する。「自分自身のオリジナリティとかいらない」みたいなことを求められているような気がする。そして個人の思想、発言が、資本主義的に定量的に評価される。

インターネットで世界が同期的に進む中、常に孤独になる機会が少なくなってきている。

孤独になれないと、常に「受動的な感情」、つまり外界からもたらされる感情に左右されるようになってしまう。いいね、とか。d

その結果、我々はその外界からもたらされる感情にしたがって、生きてしまう。自分の声が聞こえなくなり、その結果感情と向き合えなくなり、謙虚さを失う。

謙虚さとは、自分自身と対話できる状態になってはじめて生まれるもので、外界のノイズに耳を傾けすぎても、受動的な感情が邪魔して見えなくなってしまうものなのだろう。

まるで、あたかも期待されているような感覚になるし、期待されていないとそれが数字に出てしまう。交友関係さえも、「期待」と「成果」の資本主義的な交換関係になってしまう現代で、自分の感情に向き合う空間が得られにくいのかもしれない。

意図的に孤独になることの重要性を、強く確認できた良書だった。




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