「ほかならぬ人へ」 白石一文
この小説を読み終わったあとに凍り付くような「ある淋しい感覚」を覚えて。この淋しさの正体がどこにあるのか、物語を運んでいる作者の筆致と構成にあることは確か。わたしなりに分析してみたい。
東海さんの年齢の記述
祥伝社の単行本でいうと、p5-p179で終わる小説の「第0章」では、名家に産まれた主人公「宇津木明生」の出自と、彼が池袋のキャバクラ嬢だった「なずな」を見初めて結婚した顛末を辿る、いわば登場人物紹介の章。第0章の最後は、明生がなずなに結婚から二年足らずで裏切られたと記して締めくくられている。そして、p18から始まる「第1章」からは現在進行形の物語がスタートする。その第1章の1行目から登場するのが「東海さん」という、会社で六歳上の女性課長である。その「東海さん」の年齢に関する記述が2か所ある。これ、年齢を記しただけの単文だから、すんなり読み過ごす文章なのだが、淋しさの一因はこの表現から、あとあと滲み出てくるものかもしれない、と、わたしは思った。
第1章が始まってすぐのp22に 東海さんはまだ三十三歳。 という記述
最終第16章が終わろうとするp176に (東海さんは)まだ三十七歳だった。 という記述
東海さんの年齢の記述(2か所)が、なぜ全体的な淋しさを誘発する要素なのか、を語る前に小説のタイトルになっている「ほかならぬ人」は何を示すのか、人間関係を簡単に整理したい。
ほかならぬ人って誰?
物語の中には何人かの恋の盲目者が登場する。「山内渚」にとっての「宇津木靖生(明生の兄)」、「宇津木靖生」にとっての「宇津木麻里(靖生にとっての兄嫁)」、そして「なずな」にとっての「根本真一」だ。彼ら彼女らは自分にとって相手が好きであることに理屈などなく、ただ盲目的に邁進してしまう。他の相手では代わりがつとまらない「ほかならぬ人」なのだ。では、主人公「宇津木明生」にとって「なずな」は「ほかならぬ人」なのだろうか――。明生は自分から離れて破滅の愛に向かおうとする「なずな」を引き留め寄りを戻そうとする。その姿勢からは、明生にとっての「ほかならぬ人=なずな」という構図は確かに見えている。それが、この物語が閉じる瞬間には、「ほかならぬ人=東海さん」にスライドしているのだ。
わたしの読みでは、この物語は、主旋律が主人公の「宇津木明生」とその妻「なずな」の物語で、副旋律は、ふたりの間の波乱の一部始終を語る「宇津木明生」と、そばで寄り添って聞いている「東海さん」の物語に読める。
セラピストのような存在
東海さんは“体からいい匂いを発する”人で、主人公からすると一緒にいると、心地良さに包まれ精神が安定する、どこかセラピストのような存在である。東海さんが発するいい匂いを、明生は香水だと思っていた(東海さん自身も特別な香水だと明生に話して聞かせていた)が、小説のラストでは、そんな香水など存在せず、彼女自身の肉体が発する匂いであるという「小さなドンデン返し」が用意されている。このエピソードからも、おそらく作者は、明生にとって東海さんは「精神が安定する存在/象徴」として表現しているのではないだろうか。この東海さんは、明生が「なずな」と別れた後の再婚相手となる。
さて。ここまで整理した上で、東海さんの年齢の記述に戻ろう。物語が、現在進行形で始まった直後のページで三十三歳、物語が終わろうとするページで三十七歳。差し引き「四年間」。これが読者が作中人物と一緒に、現在進行した時間帯だということだ。
ラスト数ページの記述
「東海さん」は主人公の再婚相手である。精神安定剤である。しかし、この東海さんの名前である「倫子(みちこ)」の記述が出てくるのは、物語後半である。東海さんが癌で入院した病室を訪れる明生が、病室の名札で確かめるp172の記述だ。
p172 入口の名札を確かめると、「東海倫子」は右の一番奥のベッドのようだった。
p179で終わる小説のp172でやっと、それまで会社の先輩で良き理解者として(言わば物語の背景として)存在していた「東海さん」に名前が現れ、グッと前景に現れたかに見える。ただ「倫子」という名前は、そのたった一か所でその後はまた「東海さん」戻ってしまう。そして怖ろしいことに、この3ページ後のp175の記述。これは怖ろしい。悪魔の記述だ。
p175 の明生と東海さんの同棲が始まった後の「真ん中のブロック」
それからがんが再々発するまでの二年のあいだ、東海さんは本当に一生懸命に生きた。仕事も全力投球で取り組み、幾つもの業績を残したし、同棲二ヵ月で正式に明生と結婚してからは家事も完璧にこなした。睡眠時間は平均四時間くらいだったと思う。明生はその体調を慮って無理しないようにといつも言い続けたが、彼女は笑って取り合ってくれなかった。
何が怖ろしいって、この五行のブロックの中に、東海さんの人生における二大イベントが超特急で押し込まれているのだ。東海さんの「死」と東海さんの「主人公明生との結婚」だ。このふたつがたった五行の中に「あらすじ」のように手短かに詰め込まれている。小説の中に重要人物の「死」や「結婚」が出てきたら誰しもが期待するような、精緻な描写がココにはない。あたかも「死」や「結婚」が、物語の中ではささいな事であって、代わりに東海さんの仕事の業績と睡眠時間の話が中心であるかのように綴られているようにさえ見えるのだ。
五行から読み取れる、もうひとつの事実がある。
宇津木明生と東海倫子の「ふたりの結婚生活は二年間だった」ということだ。
二年間という時間
二年間というのがどういう数字かというと、(読者が作者の語りにしたがって、宇津木明生とともに過ごした四年間の)物語のちょうど半分の時間にっ相当する。つまり読者は四年間のうちの半分をp174までの分量をかけて読み進め、残りの半分をラスト5ページで過ごした計算になる。ページ数で34倍の差があるが、どっちも二年間の話だ。いびつである。残酷である。お気づきだと思うが、170ページ近い記述は「ほかならぬ人=なずな」で、5ページの記述は「ほかならぬ人=東海さん」なのだ。
よく、TVの連続ドラマが放送回数を削らなくてはならなくなり、急遽最終回を放映し、これまでの回のすべての伏線を回収するためにスピードがアップするということがある。“巻いて“ 進めるというやつである。この小説はどうしてラストが“巻き“になっているのだろうか。「怖ろしい」と書いたのは、一見「東海さんの人生をぞんざいに扱った」ように見せた記述、「ささやか過ぎる」記述の効果である。
「東海さん」はあたかも一輪の花のように、ささやかな香を漂わせている。対比として170ページに及ぶい「ほかならぬ人たち」の刺激臭とのコントラストが浮かび上がる。
作者が「東海さん」との結婚生活を記述した分量も筆致も「ささやかな」ことから、読者からすると、ある疑問が生じる。宇津木明生にとって東海さんは、真に「ほかならぬ人」だったと言えるのだろうか? やはり、明生には東海さんと結婚していた時間も終始「なずな」のことが頭をよぎっていたのではないだろうか? 読者自身の頭に「なずな」の記憶が(小説の分量と印象において)いかんともしがたいように残っているのと同じように、明生の記憶にもまだ……。それが素直な反応だと思う。その読み方は間違っていないと思う。ラスト寸前までは。
そして物語は本当のラストを迎える。
不在の重さ
ここで全て気づくのだ。明生が気づくと同時に読者が気づく構造になっている。明生にとって、東海さんとの結婚生活の二年間が宝物の時間であり、「東海さん=ほかならぬ人」であると気付くのは、東海さんを喪失した時だった。不在を知って、初めて気づく種類のものなのだから、結婚生活の二年間にはもちろん気づいてはいない。作者が記述した「結婚生活の分量や筆致」がささやかであっても不思議はない。いや、ささやかであるからこそ、一層切実に迫ってくる。
ラストを転載したい。
自分はもう二度とあの匂いを嗅ぐことができないのだ……。
そう思うと、明生は「東海さん」の不在が耐え難いものに感じられた。
彼女は、この家で過ごした最後の夜、
「明生さんの赤ちゃんうを産めなかったことだけが心残りかな。ごめんね明生くん」
と言って彼の胸でさめざめと泣いたのだった。
明生はベッドのへりに骨箱を抱いたまま座り込んだ。
決して泣くまいと心に決めていたのだが、余りにも深いかなしみに涙があとからあとから溢れてくるのを止めようがなかった。
2行目に注目したい。ふつうであれば、東海さんの「不在」 というように、不在の方にカギカッコを付けてもいいところを、「東海さん」の不在 と記述している。このラストに至っても、ひとりの女性としてより何かの象徴のように描いているのだ。
わたしは白石一文はこの小説しか読んでいないので、この象徴的な表現の裏に何があるのか、他の小説を読み進めたいと思った。