「癒し」を求め続ける心理
私は元々はブログ、そして、いろんなSNS、そして2016年頃にユーチューブを開設した流れできた。
そこで感じるのは、それぞれの畑によって、層が大きく違うということ。
これは、決して珍しい意見ではなく、いろんなインフルエンサーが言っていることだけど、特にユーチューブと、ブログなどのテキストの畑は、大きく違うと感じる。
ざっくりいうと、ユーチューブ配信には、「癒し」を求める層。
テキスト配信には、「真理」や「事実」を求める層が多くいるのだと思う。
ユーチューブは、今でこそビジネス系とかがあるけど、最初はヒカキンさんなどのエンターテイメントっていうのか、おもしろ動画が主流だったこともあり、視聴者の向き合う姿勢が、他の畑と全く違う気がする。
食べ物、ペット、旅行、ゲーム、芸能人などが強いのは、すごくわかる。
以前にコメントで「動画なんてバカしか見にこないのに、なんで配信するのですか?」と聞かれた。
すごく本質をついた質問だ。。
そこで心が折れそうになったけど、今はなんとか続けている。
でも、癒しって極めるとどうなるの?
今のテレビみたいになるのかな?
嫌なことから目をそらすために、癒しを求めるための行為を、心理学で「慰藉(いしゃ)的合理化」と言う。
これは、昨日も言ったけど防衛機制の一つで、合理化の中のもの。
「慰藉(いしゃ)的合理化」には、奇跡の信仰と、時間の信仰がある。
奇跡の信仰は、占いとか、引っ越し、転職、出会いなどによって、「奇跡が起こって幸せになる!」と夢見ること。
「毎日お参りしていれば、良いことあるかも」という感じ。
また、時間の信仰は、「時がたてばなんとかなるでしょ」と、なにもしないで待つこと。
画像に、「40歳くらいで現実を知る」とあるけど、これは、「どれだけ占いを信じても幸せになれない」という限界を、中年になって知る時が来るという意味。
これはエーリッヒフロムの言葉で、私のものではない。
このような挫折を、「中年の危機」ともいうけど、この時期の挫折は結構大きな痛手になると思う。
つまり、ここからもしばらく時間の信仰をするために時間つぶしをして待ち、中年になって何も良いことはないと絶望したり、キレるのかもしれない。
時は、有限だ。
死ぬ前になって、それは痛いほど感じるだろうけど、生きている中盤は、ずっと楽な方へ回避しながら、ふらふらと生きるものなのか。
どうだろう?
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