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第6回「続・瀬名奪還作戦」2月12日

岡部元信という名将について語りたい!

今回も面白かったですね。まさに映画「ミッション・インポッシブル」のような手に汗握る展開の連続でした。
今川氏真が駿府の今川館(正しくは今川館で、まだ駿府城はありません。駿府城は江戸時代に大御所家康が建てた城です。戦国時代の今川家の詰城は賤機山城になります)を出立するシーンで、今川家の重鎮岡部丹波守元信が瀬名や関口氏純の手縄を切る描写がありました。
あれは単に歩きやすくしてやるという温情だけではなく、「氏純を罪人扱いしない(したくない)ということで、元信のような今川家の重臣の心が今川家中でも揺らぎはじめていることを表現していました。
それを伏線として、その後の巴の見せ場シーンの言葉に繋がっていった訳です。
主君氏真から、氏純たちを斬れと命じられた元信。
まさに、「どうする元信」でしたね。
ここで元信の名誉のために、ちょっとご紹介をしておきます。
岡部元信は尾張と死闘を交えた小豆坂の戦いにおいて、猪の立物をつけた筋馬鎧の駻馬を操り、織田信秀軍(信長の父)の兵たちを縦横無尽に蹴散らしたと言われています。
安祥城の戦いでも兜首の武功をあげて、今川義元より尾張攻略のための橋頭堡となる鳴海城の城主に任じられました。
桶狭間の戦いでは、義元が討たれ、今川軍が総崩れになる中でも最後まで徹底抗戦を続け、鳴海城を攻める織田信長の兵を見事に撃退しました。
その上で開城の条件として、主君義元の首級を返すように要求すると、その忠義に感じ入った信長はこれに応じたと伝えられています。
元信は、義元の首級を入れた棺を輿に乗せ、織田軍の前でも悠然として鳴海城を引き払ったそうです。
これほどの千軍万馬の豪傑は、今川家臣団の中でも群を抜いています。
なお、この後、徳川家康が武田信玄と密約を交わし、両軍共同作戦で今川領の駿河と遠江を攻めます。
このときになんと今川家の国人が、21人も信玄に内応して氏真に叛旗を翻していますが、岡部元信は今川家に留まり、大名としての今川家の最後の戦いである掛川城攻防戦で家康と戦っています。
岡部元信は、最後まで今川家に忠義を尽くした名将でした。

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