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日記 1月13日

奈良の本屋さん「ほんの入り口」さんで、文学フリマ前日祭を行うとのこと、奈良に行った。50歳を過ぎてから自動車免許を取った夫が運転をしたがったので、車で行った。夫は私を本屋まで送ってから奈良健康ランドに行ったらしい。

奈良といえば鹿。私は何故か昔から奈良公園の鹿に会いに行くのが好きだ。最近は親鹿も子鹿も、鹿せんべいを持った人間にはお辞儀をするようになっている。昔はこんなことなかったし、人間界でも「あざとい」って言葉が使われていたかどうかわからないが、今は鹿たちは明らかにあざとい。でもそれをわかっていて、私は鹿せんべいをあげるのが好きだ。何故か癒される。動物園でふれあいコーナーがあったら絶対行くタイプなので、単にそれだけのことだと思う。

車を少し外れたところに停めて、奈良公園の南側から向かった。樹齢の長そうな木々が日差しを遮っているが、しかし木々の隙間から漏れる光のなか、鹿たちは彫像のように寝そべって、私と目があっても微動だにしない。なんとなく神々しささえ感じる鹿たち。

人が多いところに出ると、博物館あたりに囲いができていて、鹿たちが大量にいた。彼らは人間たちに頭を下げて鹿せんべいをもらっていた。私もあげたが、「お辞儀して食べてあげるサービス」を提供しているかのような余裕を感じた。この子たちはこの囲いのなかは当番制かな、このチームは5時までかな、などと思いながら鹿せんべいを食べていただいた。

車に戻る時に、さっきの神々しい鹿たちもお腹をすかせているように思い、余分に買った鹿せんべいを持って行った。私になんか見向きもしなかった神々しい鹿たちは、私の鹿せんべいを見た途端に立ち上がり、突進してきた。囲まれた。一人で何枚も欲しがる子もいて、さっきの当番制の子たちとは明らかに違った。あっというまになくなってしまったが、まだたくさんの子に取り囲まれていたので、「もうないねん、ごめんな」と謝って両手を広げて見せたが、一頭だけ私の後ろをかなり長い間ずっとついてきた。すごく切羽詰まった目をしていた。なんだか急に俗世に叩き落としてしまったような罪悪感を感じる。神々しかったのに、ごめんね。

そのあと本屋さんは大変楽しかった。詳細は別記事に多分書くが、どうしていきなり日記を始めたか、はこの本屋さんでの会話がきっかけだった。
ものすごい分厚い箱みたいな(いわゆる鈍器本)おしゃれな文庫本があり、何かと聞いたら日記だと言う。日記を書いて出す流れがあるんだ、ということだった。その前に、大正時代の女性の日記で著作権切れで復刻したものを購入したばかりだったのもあり、なるほど時代を映すのだなとおもったりもしたが、現代を普通に生きる日記など、津村記久子さんの小説くらいは面白おかしく書けないと面白くないと思う、とか、そんな話をした。同じ出来事があってもその人のフィルターでかかれば違うだろうし、これまで生きてきた流れでどういうフィルターがかかってるかは一人一人違う、それが個性になるのではないか、そんなことも思った。
まあ、私は小説でセリフばかり書いていて描写力も鍛えないといけないし、日記でも書くか、と思ったのが1月13日。せっかくだから1日から書くことにする。今年は最初から大変な年だったし。

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