昭和の小学生、ネパールに行く(1)_Nepal in 1979 カトマンズ
自分が初めて行った外国は小学校2年生の時のネパールである。当時は1979年なので、その時代の日本人の小学生でネパールに行った人というのはあまりいなかったんじゃないかと思う。
これまでも何度か記事に書いてきたが、うちの家族は山や自然に何かと縁があったこともあり、チベットだのネパールだのという単語は家の中で日常的によく出ていた。実際に父は仕事の関係でその近辺はよく訪れている。その時父がお世話になった人に会いに行くという目的も含めて、母親と自分の二人で79年の年末に旅行に行くことになった。
今は必須ではないようだが、当時は予防接種を受けて行った。コレラ2回と種痘だったらしい。コレラの注射はお尻に打ったのを今でも覚えている。場所は、横浜市民なら今も同じパスポートセンターのある、山下公園の前の産業貿易センタービルだった。
飛行機は、なんとも懐かしい、パンアメリカン航空(パンナム)の世界一周便だ。これで成田から香港・バンコク・デリーと経由して、デリーからロイヤルネパール航空でようやくネパールのカトマンズに入る、という経路だった。日本を18:00に出発して、現地時間で朝10:20着とのことなので、まぁまぁ時間がかかっている。
カトマンズではホテル・ブルースターに宿泊。このホテルは現存しているようだ。宴会場もある、かなり大きなホテルだったのを覚えている。
さてお昼を食べて、母と二人でカトマンズの市内へ出てみる。
一歩外へ出て、8歳の大源太少年は衝撃を受ける。
圧倒的にぼろぼろの服を着た子供たち
大通りをのしのしと歩く巨大な牛たち
埃
たくさんの人
考えられない色彩
狭い道をプープーと警笛を鳴らしながら人をかき分け進むリキシャ
カオス
見たこともない奇怪なお面
この情報量である。これが一気に全部目に飛び込んでくる。ひたすら怖くなり、母親にぴったりしがみついていたようだ。それはそうだと思う。ネパールなんて、簡単にネットで情報が手に入る今の大人だってカルチャーショックなのだ。
当時はもちろんネットもないし、なんなら「地球の歩き方」みたいなものもなかった。あったかもしれないが、ネパール版はなかったはずだ。事前に全くビジュアルをイメージすることなく、一気に子供が目にする情報としては、カトマンズの喧騒は相当な刺激だったろうと思う。
カトマンズのニューロード、インドラ・チョークを歩き、その足で、かつて父が世話になった方の家を訪ねて行った。とても良くしてくれた。家には3人のお子さんがいて、12歳の女の子、8歳の男の子、5歳の女の子だった。真ん中の男の子はぼくと同じ歳だった。テンジンくんといって、その後ぼくは彼としばらく英語で文通することになる。最近はとんとわからないが、元気なんだろうか。確かニューヨークに移り住んだという話を聞いたことがあるような。。
テンジンくんの家では子供たちみんなで折り紙などで遊ぼうとしていたようだが、ぼくはとにかくここに来るまでにカトマンズの街の様子にびっくりしすぎて、また初めての外国人の子供とのコミュニケーションで、その時はあまりうまくとけこめなかったようだ。
その後ホテルに帰ると、ぼくはすぐに寝てしまい、そのまま朝まで起きなかったらしい。時差もあるだろうが、やっぱり相当びっくりしちゃったんだろうと思う。
(つづく)
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