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【コラム】 オオシマザクラとソメイヨシノ

日立鉱山でオオシマザクラが最初に植樹されたのは明治41年(1908)で、試験的に住宅地や街路樹として植えられたことに始まります。

地所係の鏑木徳二、山村次一が煙害で荒廃する日立鉱山の山々へ植林する耐煙木として、伊豆大島の火山噴煙地帯で、硫黄分の多い土地に生息するオオシマザクラの苗木や種子を取り寄せ植林したといわれています。

オオシマザクラは、伊豆半島や房総半島に多く分布し、薪炭用に栽培され、餅桜・薪桜といわれ、野生状態になったといわれています。

日立鉱山の石神農事試験場では、苗木の育成に取り組みますが、種子が乾燥しやすく保存が難しく、大部分が発芽しないという状況でした。3年目に偶然、堆肥置場に塵芥を片付ける際、下積みのところから捨てたオオシマザクラの種子が発芽しており、それを抜き取り栽培して、大正4年には良い苗木を収穫できました。

農事試験場で植林用の苗木育成を進めて、荒廃が軽度の準崩壊地の萱苗のそばにオオシマザクラの苗木を植栽しました。大正4年から昭和7年にわたり、260万本ものオオシマザクラを植林し、近隣への無償配布は昭和12年までに72万本にも上ります。後日、成長したオオシマザクラは鉱山の燃料、従業員の薪炭に用いられました。

昭和3年には昭和天皇即位記念に700本のソメイヨシノが本山から大雄院まで、本山住民の勤労奉仕で植栽されて、ご大典の桜といわれますが、その添え木はオオシマザクラでした。

ソメイヨシノは、江戸時代後期、江戸染井村(現豊島区)の植木屋が吉野桜として売りに出しました。明治になりソメイヨシノという学名をつけたのは、高萩出身の松村任三です。

松村任三は、高萩市下手綱に水戸藩中山氏(松岡領)の家老の家に生まれ、東京帝国大学卒業後、東京帝国大学教授、東京大学小石川植物園の初代園長を勤めました。園内には、松村がその木をもとにソメイヨシノ(プリヌス エドエンシス マツム)の学名を付けた木が残されています。

松村任三は、国内外で植物採集を行い、ソメイヨシ、ワサビの命名のほかにも150を超す植物を発見。日本の植物を集大成した総合目録『帝国植物図鑑』等を出版。独学で植物学者となった牧野富太郎を支援しています。

日立の山や街を彩るオオシマザクラとソメイヨシノには、背後にこのようなストーリーがあります。

文=大畑 美智子

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