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【コラム】 誠実な記録者 関右馬允

関右馬允は、日立鉱山の煙害問題に住民側の代表として青年時代から取り組み、小説『ある町の高い煙突』(新田次郎)に登場する「関根三郎」のモデルとなりました。

小説の中では、煙害被害の様子をカメラで記録する場面がたびたび出てきますが、実際にカメラを購入したのは、大煙突ができて煙害問題が落ち着いてからで、大正10年(1921)33歳の時でした。

息子の関勝馬氏によると、「旅行好き登山好きの父はその度に必ず写真機を持参したことは勿論だが、ちょっとした外出にも写真機は手にしていた。又訪問客があれば帰りぎわに「記念にひとつ……」と写すのである。そして「写した方には送るのが礼儀だ」と必ず実行した」(『写真集 カメラでつづった半世紀 関右馬允アルバムから』より)とのこと。

こうして撮られた写真は5万枚にも及び、その一枚一枚どれにも日付が記されてアルバムに整理されています。写真は、暮らしの風景を撮ったものが多く、大正10年から昭和48年にな亡くなるまで右馬允が撮影した写真は、大正から昭和の時代の日立地方の貴重な生活記録です。

その一部約300点は、『写真集 カメラでつづった半世紀』で見ることができますが、残りの写真の活用が切に望まれます。

カメラを持って精力的に野山を歩き回っていた右馬允は、巨樹の写真も数多く撮っています。その記録は、『茨城県巨樹老木誌』(上巻)(1936年)『茨城県巨樹老木誌』(下巻)(1940年)、『日立市巨樹老木集』(1959年)にまとめられています。

また、日立の野山を歩き回った経験は、『常北之山水』(1924年)という日立の山のガイドブックにまとめられています。(1951年に改訂版、1986年に筑波書林の「ふるさと文庫」版が発行)

日立鉱山の煙害問題に関しても、『日立鉱山 煙害問題昔話 日鉱関係忘れ得ぬ人々』(1963年)、『続日立鉱山 煙害問題昔話』(1964年)を著し、煙害問題の当事者が自分の体験に基づいて生き生きと書いた記録を私たちは読むことができます。

企業と住民が協力して煙害問題を解決した「大煙突とさくらの物語」が生まれ、語り継がれているのは、関右馬允のような「誠実な記録者」がいたからこそと言えるのではないでしょうか。

文=宗形 憲樹

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