「本が売れない」ことについて、一消費者として考えてみた

作家や漫画家たちの悲鳴がツイッターに流れている。「雑誌の連載を単行本にしてくれない」「新作が売れない」「担当編集者がパブリシティに対して熱意がない」「刊行後1週間程度の売れ行きで増刷のあるなしが決まってしまう」などなど。要するに、本が思うように売れないのだ。漫画は海賊サイトも影響しているし、小説などについては、公立図書館を目の敵のように批判する発言が出版社の社長から出たりもする。
そこで詳しく調べてみると、書籍の推定販売部数は1988年まで上昇を続け、最高で9億4349万冊、推定販売金額は1996年がピークで1兆931億円。以降、両方の数字は一時的な微増はあるものの、全体としては下降線が続いていて、冊数だと2015年には6億2633万冊。売り上げで見ると2020年で6661億円となっていて、これに電子書籍401億円が加わる(コミックは含まれない)だけ。金額ベースで見ると、1970年代後半に相当するが、大きく違っているのが出版点数で、1970年代後半であれば、3万点を切っているのに対し、2019年だと71903点と倍以上になっている。1点あたりの冊数が低下しているということだ。
ピークに対し冊数で33%減、金額でも約40%落ち込んでいる。紙の漫画の場合、コミックスは雑誌扱いになったりしているので確たる数字は分からないけど、雑誌そのものの減少は書籍より酷いかもしれない。それでもコミックスに関して言えば、電子書籍の伸びが大きいことは救いだ。

ただ、これらはあくまで供給サイドの問題であって、消費者サイドの問題ではないとも言える。
私が消費者として単純に考えた場合、今の出版の状況は1996年よりも遥かに良い状態だ。出版点数の増加は選択肢の増加だ。出版社が少しでも売り上げを延ばすために、新装版・改訂版で出す本も増え、品切れ状態が解消され、高価な古書を買わなくてもすむことが増えた。当時は都内の大型書店や神保町や高田馬場の古書店街に直接出向かないと不便なことが多かったが、今ではインターネットで古書店にもアクセスでき、しかも検索システムによって本を探すのが極端に楽になり、多少の送料さえ負担すれば地方に住んでいても不便を感じない(送料がかからないケースも少なくない)。地方に住むと雑誌や書籍の発売日が数日遅れるのが当然だったが、電子書籍の場合、全く関係ない。近所に書店がないこと自体、何の問題もない。私の場合だと、まあまともな本屋は車で15分弱ぐらいかかるとこにしかない。だからネット書店がなければ、かなり不便な読書生活を強いられる。また、1990年代であれば大きな書店の店頭で新刊書コーナーを定期的に見たり、出版社のPR誌を入手したり、新聞の広告に目を凝らして情報を得ていたが、今ではそれぞれの出版社のHPにアクセスし、ネット書店で出版社や著者の名で検索して、その結果を見ればいい。よく買うジャンルの本については、お知らせもくる。店頭(新刊書にしても古書にしても)で見つけた重い本を持ち帰る必要もない。近年、東京に出た際に見つけた本は、新刊書でも古書店でも郵送してもらっている。
以下の経験をしたときにもネット社会の利便性を実感した。それは10年ぐらい前にオークションで文庫本を売ったときのことだ。送料(ゆうメールで送ったと思う)を含めると30円ほどしか安くならないのに、と思ったら、住所が北海道で市(札幌ではなかった)の中心部からかなり離れたところになっていた。その文庫本1冊の価格だと当時は送料無料のネット書店はなかったし、車で買いに行けば、ガソリン代に加え往復で1時間以上もかかる。仕事帰りに寄れる書店があればともかく、そうでないなら、送料込みで定価と同じぐらいなら、オークションで購入しようと考えるのも無理はない。自宅や通勤・通学圏から離れた距離にあれば、どれほど大きな本屋も意味がないのだ。

本が売れなくなったことに加え、ネット書店の隆盛とともに本屋が失われていく状況を嘆く人も多い。それに輪をかける電子書籍の普及に対し、紙の書籍に対する強い思い入れを持ち、電子書籍をひたすら否定する人もいる。しかし、そういったことを発信している人の多くは、おおむね、東京都内や都心へのアクセスが容易な人、首都圏ではなくても大学に勤めていたり、政令指定都市に住んでいたりすることが多く、本当の意味で書籍を入手する難しさを知らないのではないだろうか。私自身も、1990年代に仕事で様々な地方に出かけるまで、書籍を入手するのがこれほど難しいとは思わなかった。そのハンデが小さくなっていったのが、ネット書店の登場であり、電子書籍の普及だったのだ。
しかし、自身が有利な立場にある人は、その有利さを自明のものとして自覚せず、不利な立場にある人たちの問題に気付かない。全く違う次元の話だが、人種差別や性差別を思い浮かべてもらうと分かりやすいかもしれない。
おそらく、こういった部分も、出版界が抱えている問題の一つだと思う。

例えば、東京都23区で最も広いのは大田区で約60平方キロ、書店は40弱あり、「日本の古本屋」に登録されている古書店はないがブックオフが5店舗ある。ほぼ同じ面積の石川県加賀市だと書店は7、やはり古書店はないし、ブックオフもない。ただ人口が大田区の12分の1であることを考えるとそれほど酷いとは思えない。しかし、倍の広さである120平方キロ以上の市は全国に約480もある。私が住む市はさらに広いのに、書店は3店しかない。古書店やブックオフも当然だがない。
親が本好きであればともかく、そうでない場合、小学校低学年ですでに読書との接点が薄くなる可能性は高い。読書時間や読書量が、年齢が高くなるにつれ減少していくことを、ほとんどのデータが示している。大人になって読書習慣を獲得するケースは極めて稀と言っていい。大人になってからも本を読む人のほとんどは、子ども時代から本を読む習慣があり、それが途中でなくならなかった人だ。
もちろん、本屋を作る試みが全くの無駄だとは思わない。だが、地方の状況を考えたとき、特に子どもたちと本との接点を作ると考えた時、最優先となるのは本屋を作ることではないと思う。大田区ほどの面積の地方自治体に、本屋を1つ増やしても公共交通の問題を解消しない限り、子どもたちが自由に本を探すことなど無理なのだ。

もちろん、出版に関わる人のほとんどが、本屋のないところに本屋を作って、素晴らしい紙の書籍を並べれば解決すると安易に考えているとは思わないが、その発言を聞いている限り、状況が正しく理解されているとも思えない。地方に住み、書店へのアクセスが簡単ではなければ、書店よりも学校の図書館や公立図書館の方が本と出会う可能性は高いのだ(以前、このことについては「本と出会う場所―本屋と図書館」に書いた)。それに、もともと、本と出会うような環境が形成されていない地域に可能性をもたらすようになっているのが、今はネット書店であり電子書籍なのだ。
日本の事例ではないが『バナの戦場』という本を読んでみるとそれがいやというほど分かる。ネットから『ハリー・ポッター』に関する情報を得て、読んでみたいと発信し、著者から電子書籍を贈られたシリアの7歳の少女の話だ。内戦下のシリアとは違い日本は平和だからシリアよりもましだけど、住んでいる場所によっては従来のやり方しかないのなら、本へのアクセスは難しいと言わざるを得ない。

消費者として単純に考えれば今は「良い状態」だと前に書いた。しかし、この状況が続けば、私の好きな作家や好きな出版社が本を今までどおりに出せなくなるかもしれない。私が興味を持つジャンルの本の出版も減少するかもしれない。出すことは可能でも、単価が極端に上がっていくかもしれない。実際にいくつもの出版社が倒産している。今のところ、私が特に好きな作家で本が出せなくなったというのは知らないが、これから出てきてもおかしくない。今は「良い状態」でも、この先がどうなるかは不明だ。
だからこそ、「本が売れない」ことを真剣に打破したいのであれば、幼稚園から小学校低学年の子どもたちが、もっと本に簡単にアクセスできる環境を作ることを考えた方がいい。少子化が進む中、もともとの分母も減少しているのだ。
自分たちが本にアクセスできる状況が普通だと考えている出版関係者の人たちが、それを前提に考えた従来の延長上にある方策では効果は出ないだろう。また、これまでとは違う優れた方策が出てきたとしても、そのための資金をどのように得るのかも難しい。そこにもアイデアが出てこないとだめだ。
小学校低学年の読書率を上げる方策を考え、それが成功したとしても、市場で効果を表すのには、最低でも10年以上が必要だろう。だから、10年前に出版界全体で策を講じていれば今頃は多少の成果が得られていたかもしれない。ただ、今からでも、出版社も本屋も作家も知恵を出して真剣に何かをしなければ、現状ではいったんは下げ止まった書籍の売り上げも、少子化が進み、人口が減少していくなかで再び下降線となる可能性は低くない。
苗木を植えなければ木は育たないということだ。

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