「博士と彼女のセオリー」あらすじ兼感想。

数年前、映画が公開された年に映画館に観に行った。だが、当時の私は観たい映画がもう一作あり、その日は夜勤明けで翌日が休みだった。つまりは私には時間があった。昼前に碌な睡眠も取らず、この映画を観たのは一作目を観終わった後。映画を観るのは兎に角集中力が必要で、一作目で殆ど使い切ったらしい私はこの映画を観ながら初めて映画館で眠るという経験をした。その日は’折角お金を払って映画館まで来たのに、勿体無いことをした’としか思っておらず、その後も映画を改めて観直すこともなかった。

あれから数年が経ち、世間は未知とのウイルスとの闘いに立ち向かうべく様々な取り組みをしている。その取り組みの一つとして自宅待機、ないし自粛活動を強いられている。私は運がいいことに自宅で過ごすことが好きだ。根が暗くて、人と関わることで生まれる熱量に疲れ、自分の好きなままに行動ができる自宅が好きだ。意味もなく何かを生み出すことが好きで本当に良かった。

話が逸れてしまった。私がしたいのはそんな自分語りじゃない、映画の感想だ。

感情が入り混じる苦しい感覚がなんとも言えず好きな私にとって、この映画は人間の様々な感情を搔き乱すいい映画だった。無論、それが全ての内容ではないし、これは私の一種の性癖かもしれない。

主人公であるスティーヴンは大学でジェーンと出会う。賢い人間らしく、早口で、難しい話を矢継ぎ早にしてくる、如何にもなスティーヴン。神を信仰しない無神論者のスティーヴンと信仰深いが決してそんな相手を否定せず話を促すジェーン。二人は相性が良かった。作中出てくるスティーヴンの友人であるブライアンもいい。大学までの道のりを自転車で競争するシーンから映画は始まる。その様子と会話のやり取りだけで二人の仲の良さと悪友っぷりが分かる良いシーンだ。ブライアンは心優しい、どこにでもいる友人想いの青年。

そんなある日、徐々にスティーヴンの右手の自由が思うように動かなくなる。最初は恐らく、騙し騙し気づかないフリで生活を続けていたが、異変は速度をあげていく。右半身までに影響を広げていった異変は右足にも表れ、大学構内を歩いていたスティーヴンは縺れ頭から地面に倒れこんでしまう。病院に運び込まれたスティーヴンに医者が診断結果を言う、「運動ニューロン疾患です」

運動ニューロン疾患、映画を観て医者でもない私にはピンと来なかったが、その後続けられた病状の説明で過去に観たドラマを思い出した。体を動かすために必要な脳からの信号に乱れが生じ、結果信号が伝わらなくなった筋肉は衰えていき最後は死に至る、治療方法のない病気。ALSという病名だけは覚えていた。

病気の進行速度は人それぞれだが、結末は皆一緒で、遅かれ早かれ命の期限はすぐにやってくる。スティーヴンは余命二年だと医者に宣告されてしまった。病院から戻り部屋で一人本を読んでいるところに何も知らないブライアンがやって来る。医者はなんて? 病気が見つかった。スティーヴンは軽い口調で返す。

深刻な時ほど人は軽い口調になる。きっとまだ信じられなくて、そして信じたくないから。それはいくら賢いスティーヴンも同じで、ブライアンはそれに冗談めいた軽口で返す。それにきちんと病気の説明、そして余命が残り二年だと伝えるとブライアンの表情が固まりふざけたことを謝罪した。この場合、どう反応してもきっと正解はなかったと思う。私がスティーヴンだとして、同情もされたくないし、ましてや謝ってほしいわけでもない。何より一番嫌なのは昨日までと違った扱いをされること。腫れ物扱いされることは絶対に嫌だ。スティーヴンはブライアンの話を遮って一人にしてくれと追い出し、女の子から電話だと伝えに来てくれた寮母についていく。ジェーンからの電話を切って、扉横にある小さな窓の死角に腰を下ろして一人ただ感情を殺していた。

ジェーンから隠れて逃げていたスティーヴンの元にブライアンから話を聞いたジェーンがやって来る。あくまで自ら自分のことを話そうとしないスティーヴンにジェーンは静かに怒りの炎を燃やす。出て行ってくれ、と突き放していてもスティーヴンが本当に一人でいたいわけはない。ジェーンは「私と一緒にクリケットをやって。してくれないならここにはもう来ない、二度と」と賭けのような発言をしてみせる。ジェーンはそう言うことでスティーヴンが躍起になると踏んでいたのかもしれない。案の定、スティーヴンはその言葉を受けて、右足を半ば引きずりながら部屋を出ていく。大学の中庭でヤケクソ気味に一人でクリケットをする様子をジェーンがそばで見守る。既に滑らかな歩行もままならず、ボールを取る手も明らかに強張っている。そのくせ一切自分の状況をジェーンに言い出そうとはしないのだ。痺れを切らしたジェーンが拾い上げようとするボールをスティーヴンより先に奪い取ると、スティーヴンはそれでも何も言わずその場を後にする。数メートル後ろからスティーヴンを追いかけていくジェーン。ジェーンは待っていた。スティーヴンが自ら話し出してくれるのを。数秒遅れてスティーヴンの部屋に辿り着いたジェーンは、物を投げ、雄叫びをあげて部屋を荒らしているスティーヴンの声を聞く。中に入り、自暴自棄になるスティーヴンに近づいて「愛している」と伝え、生涯共にすることを決めた。

そこから二人の元に子どもが生まれて幸せに暮らすが時が経てば経つほど、当然スティーヴンの症状もどんどん進んでいく。いくら愛していても自分で動けない車いすの旦那とまだ幼い子ども二人の面倒を見る労力は想像を絶する。そんな様子を見かねたジェーンの母親が週一で教会の聖歌隊に入ってみたらどうか、提案を持ち掛ける。そこで出会うのが指揮を振るうジョナサンだ。ジョナサンはとても素敵な人間で、優しく親切で、自分にできることならと助けを必要とする人に手を差し伸べられる立派な人間。ジェーン以外の助けを必要ない、間に合っていると断っていたスティーヴンもそんな親切なジョナサンと出会って考えを改める。「親切で助けてくれる人がいるなら断る理由はない」けど、もしかしたら、スティーヴンはこの時点でジェーンの気持ちを見越していたのかもしれない。

それからスティーヴン一家+ジョナサンの生活が始まる。五人は楽しく、快適に、幸せに過ごしていた。けれど、それだけ密に過ごしていれば好意が芽生えるのも時間の問題だ。そんな中、聖歌隊終わり、ジェーンがジョナサンに妊娠したことを告げる。それは勿論めでたいことで、当然ジョナサンも喜ぶ。けれど、ここで二人の反応見て、気づきと納得が同時にやってきた。きっとそう伝えることで、二人ともがお互いに釘を刺している。お互いの良心に。ただ、そんな二人の思いも空しく、周りは二人の特殊な関係を良しとしない。結果としてお互いに好意があったのだから、周りの想像通りではあったのだけど。距離を置こう、僕は君に好意がある。初めて明言したジョナサンにジェーンも声を潜めて返す。私もあなたに好意を持ってる。そして、その会話を最後に二人は距離を置いて会うことをやめる。スティーブンにはジェーンが必要不可欠で、優しくて親切なジョナサンは、ジェーンにその全てを捨てさせることは出来なかった。

三人目が生まれ、また一家だけの生活に戻ったある日。スティーヴンがフランスのボルドーであるオペラ観劇に誘われる。ジェーンは子どもを残して行くわけにも行かず、代わりに学生を付き添いにつけることにする。この機会にスティーヴンはジョナサンと家族でキャンプに行ってはどうかと伝えてボルドーへ旅立った。久方ぶりのジョナサンとの再会を喜ぶ子どもたちに紛れて、まるで本当の家族のようにテントを建て、ジェーンもはしゃぎ、キャンプを楽しむ。この時、完全にジェーンの気持ちはジョナサンに向いていたと思うし、それはきっとジョナサンも。夜、子どもが寝入った後で、ジョナサンのテントに声をかける描写があった。その時には何もなかったと思うが、抱きしめてキスをするくらいはしたかもしれない。そんな中、ボルドーでオペラを鑑賞していたスティーヴンに異変が起きる。鑑賞中、突如呼吸困難になり病院に運ばれたとジェーンの元へ連絡が入った。慌ててボルドーまでジョナサンの運転で向かうと、病院には人工呼吸器をつけベッドで横たわるスティーヴンがいた。人工呼吸器を外してくださいと指示を仰ぐ医者にジェーンは怒る。彼を死なせるわけにはいかない、絶対に連れて帰る。それが愛なのか、ただの情なのか、はたして罪悪感からなのかは分からない。けれど、ジェーンはあくまでスティーヴンと生きることを諦めない。そこでジェーンは選択を迫られる。人工呼吸器を外してスティーヴンを楽にするか、喉を切開してチューブで呼吸ができるようにするか。喉を切開すれば呼吸はできるようになるが、二度と声を出すことは叶わなくなる。ここでどの選択肢を選んでもジェーンは後悔していたと思う。それでも、喉の切開して話せなくなったとしてでも、スティーヴンに生きて欲しかった。

その後手術は無事成功し、再び車いすに座るスティーヴンはぼんやり病院の窓から外を見ている。そこに声をかけてスペリングボードを見せるジェーン。透明のアクリル板に六色のシールが上下均等に張られていて、そのシールの下にそれぞれの色のアルファベット。伝えたい単語の文字の色を認識し、瞬きを返事として言葉を組み立てていく。だが、スティーヴンはさみし気な表情のまま、瞬きをせずにジェーンを見つめるだけだった。ジェーンがそこまでしてスティーヴンと会話をしよう、させようとする姿には愛も、情も、罪悪感も、きっと全てがあった。

一介の主婦であるジェーンにスペリングボードを必要とするスティーヴンを満足する介助はできず、有能な看護師であるスレインを雇う。スレインはすぐにスティーヴンの賢さとユーモラスな性格を好ましく思う。素晴らしい患者だと、ジェーンに奥様は幸せ者ですねと告げる。それから暫くしてスペリングボードを使わずに音声合成器を使い会話を交わせるようになった。そうしてその音声合成器で書いた本を出版し、たちまち世界的ベストセラーになる。神を信じないと過去笑っていたスティーヴンは本で神を認めるような一文を載せていた。無神論者だったスティーヴンはジェーンと出会って一部変わったのかもしれない。

神を信じるようになったのね、と喜ぶジェーンに、授賞式にはエレインをつれてく、面倒を見てもらう。と伝えるスティーヴン。長年の付き合いがあるからこそジェーンはその一言で全てを察して受け入れた。ジェーンも薄々察していただろう。何年になる。その問いかけにジェーンは優しく笑いかけて返す「二年のはずが、長生きしたわね」そういって背中を向けて涙を流すジェーンにスティーヴンは距離を詰める。車いすでなければきっと昔のように抱きしめていたはずだ。スティーヴンの性分は驚くほど何も変わっていなかった。その優しさに触れてジェーンはスティーブンに跪いて「あなたを愛したわ。精一杯やった」そしてスティーヴンの涙を拭う。心配しなくても、大丈夫。スティーヴンもジェーンのことが大好きだった。だからこそジェーンの体を、心を、これ以上縛り付けているのが耐えられなかったのかもしない。

それから二人は離婚し、スティーヴンはエレインと、ジェーンはジョナサンと再婚。その後もスティーヴン、ジェーン、ジョナサンは仲の良い関係のままだ、のテロップで映画は終わった。


数年前、観た時はここまで大きく感情が動かされることはなかった。お金を無駄にして勿体なかった、次からは寝ないようにしよう。そんな見当はずれなことを思っていた。そこじゃない、私が本当に悔やむべきは一人の人生の話を惰眠で見逃したところにある。スティーヴンの激動の人生の中にあった様々な形の複雑な愛の形が余りにも大きすぎて、言葉にするとどう言っても簡素でつまらない感想になってしまう気がする。私の語彙力が足りないばかりにあの素晴らしさを形容することが出来ない。スティーブンも、ジェーンも、ジョナサンも、スレインも、みんなそれぞれの想いがあって、自分のおかれた状況に向き合ってて格好良かった。

作品のモデルとなったホーキング博士は二年前に亡くなってしまってたことが本当に悔やまれる。謹んでお悔やみ申し上げます。

この感想は作中のジェーンの言葉を借りてしめよう。二年のはずが、長生きしたわね。願わくば、どうか向こうで宇宙万物の全てを説明する方程式を見つけ出せますように。

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