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ギャップイヤーへの違和感

自己紹介で「おいくつですか」と聞きますか?




対話のイベントで「まずは大人が変わっていかないといけないと思う」という言葉が場に置かれた。

いつから大人なのか?

そんな問いに、大学生から?成人してから?という年齢が浮かぶ。
年齢という既存のモノサシを使って大人かそうじゃないかを判断する。

初めてあった人と自己紹介で「何歳ですか?」と話題に上がるときは、相手の人生のフェーズを推し量るときに使う。

ぼくはそう。

これくらいの年齢だったら、仕事ではこんな役職かな、結婚はしているのかな、お金はこれくらいもっているのかな。そんな具合。

ギャップイヤーという言葉が市民権を得ているように、何歳だから何年生、と決めつけられない時代も訪れた。

ぼくがギャップイヤーと聞いて受ける印象は。ギャップ。つまりズレている。
ズレているものは、戻さなければいけない。
だから、例えば仕事をやめて1年旅をするなら、旅が終わればギャップイヤーも終わり。
ギャップイヤーで得たもので人生の推進力を上げて、元のルートで遅れた分を取り戻す。

ぼくは20歳で大学をやめてから、ずっとギャップイヤーズを過ごしている感覚がある。
それはもはや、戻さなければいけないズレとしてのギャップではなく、歩む人生の描き方そのものが変容したような感覚だ。

ギャップイヤーとは、戻ってくるべき定められた人生のシナリオに、部分的な彩りを加える感覚ではきっとない。
もっと能動的に人生の物語を書き綴っていくプロセスなんじゃないだろうか。


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