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僕がスタジオを作った理由②

高校生時代編〜Daichiというミドルネームが誕生

さて、高校に入ってからギターを始め コピーバンドがとても楽しかった
高校1年でしたが、ここで良く聞かれるミドルネームのDaichiの由来を。
埼玉の公立高校に入ったのですが地元から離れた高校だったので
当然友達もひとりも居なかったわけです。
クラスの他の人たちは地元が多かったので、少しづつ友達も出来るようになって
みんなで集まっている時に「そうだ あだ名付けようぜ!」
と言い出した子が居まして、
「ダイチ」と「アグリ」どっちがいい!? 
と強制的に2択を迫られたわけです(笑)
当時オリンピックで有名だった水泳選手の鈴木大地選手と
F1で有名だったレーサーの鈴木亜久里選手の2択
鈴木だから というだけの理由でした。

どっちかというとダイチかな〜 という事であだ名が「ダイチ」に決まり
その時のあだ名が今も残ってるという、まぁそれだけです(笑)

本格的に仕事を始める時にクレジットどうしよう?となったわけですが
普段からダイチと呼ばれていたので、クレジットにも入れておかないと
逆になんでダイチと呼ばれてるんだ?となりそうだったので
入れる事にしました。
オリコンなどにクレジットが掲載されると何だか目立つみたいで
結果的に名前をすぐに覚えてもらえてラッキーでした(笑)

高校2年生〜ホコ天での活動

高校の同級生とそのお兄さんと学校外でのバンド活動を始めた鈴木少年
初めてライブハウスでライブをしたのもこのバンドでした。
知らなかった音楽を色々知れたり、オリジナルバンドも楽しさを知り
オリジナル曲を作る事も初めて。
何本かライブをしたり大きなイベントに出させてもらったりしましたが
活動が少し落ち着いていた時期に
当時原宿のホコ天やライブハウスで活動していてテレビ埼玉の番組
などにも出演していたB♂NKURAというバンドのボーカルから一緒にやらない?
とお誘いが来たわけです。
話を聞くとバンドメンバーと喧嘩してひとりになったので誘いに来たと(笑)

そこから一緒にやる事が決まり、スタジオで練習しよう!とスタジオに入ると
喧嘩したはずのベースとドラムのメンバーが来てたんですよね。
あれ?と思ったけど「しばらく手伝ってやるよ!」みたいな感じで。
詳しい事もよく分からず何度かスタジオに入ってるうちに
ホコ天いつやる?みたいな話になってきて
気づいたら僕がそのバンドに加入する形になっていました(笑)

他のメンバーは2歳年上の社会人だったので、そこから活動ペースが
ぐんと上がり、毎週日曜日はホコ天 土曜日は渋谷でストリートライブ
月に4~5本の対バンライブ 何ヶ月に1度 ワンマンライブ
と高校生の鈴木少年はついていくだけで必死でした。

【ホコ天】当時、代々木体育館の前の通りが毎週日曜日に歩行者天国になっていて
そこでバンドがたくさんフリーライブをしていました。
バンドブームのきっかけにもなった場所でした。

大宮フリークスというライブハウスでファーストアルバムを出したばかりの頃の
Mr.Childrenと対バンしたり、冬場はホコ天をやる前にまず雪掻きをしたり
場所取りのために深夜から代々木公園の路上で寝泊まりしたり(笑)
定期的にテキ屋さんに囲まれてお叱りを受けたりと、まぁネタは尽きませんね。

そのバンドで大阪の城天にも行きました。
大阪にもホコ天みたいのがあるらしい!と「BANDやろうぜ」という雑誌


に載っていたのを見て、機材を全部持って大阪へGO。
お金も無いので当然高速も使えず、片道12時間かけて軽のワンボックスを走らせ
大阪城公園のトイレで体を洗い(笑)
様子を見ながら端っこに機材をセッティング。

初めてだったけど結構人がいっぱい見てくれて、お客さんに色々話を聞いていたら
シャ乱Qというバンドがデビューするので、今日が最後の城天だよ!と
教えてくれて、デモテープもくれました。
ライブを見に行くとすごいお客さんの数で圧倒されたのを覚えてます。

その後色々ありシャ乱Qが中心で結成された「すっぽんファミリー」
という複数のバンドが集まったグループと一緒に
東京や大阪で城天、ホコ天、イベントやライブをする事になり
つんく♂さんと東京で会う事になるのですが
それは次回あたりに書こうと思います。

今回はこの辺で。



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