見出し画像

僕がスタジオを作った理由⑤

21歳 無職 自称ミュージシャン

そんなこんなでレコード会社との契約が無くなり
自動的に出版社、事務所との契約も終わり
フリーランスという名のただの無職になりました。

新しくバンドやろうかな〜と、しばらくは神田くんと
高校からの友人のドラム三四郎も誘い定期的にスタジオに入りながら
ボーカル探しをしつつ交通警備員のアルバイトをしてました。

そんなこんなしているある日、棚橋UNAさんから電話が。
「ダイチくん何してんの〜 仕事手伝ってよ〜」と。
断る理由は何もなかったので二つ返事で「やります!」
そしてアシスタントのお仕事が始まる事になります。

棚橋さんはMAXやDA PUMPのライブツアーのマニピュレーターをしていて
仕事がとても忙しかったので
(連日リハ〜修正でマジで寝れない位の仕事量でした)
そのデータ作りのお手伝いから始まったと思います。
マルチテープからMacにデータを入れてデータ整理をしたり
ライブの衣装チェンジ用の繋ぎSEやオープニングSEを作ったり。

ちょうどTV番組ASAYANのオーディションで合格した女の子を


野崎Pがプロデュースする事になり、
そのデビューアルバムのお仕事を棚橋さんと一緒にアレンジ
させてもらったり(歌モノ仕事はこれが初めてだったと思います)

ゲームミュージックのリアレンジ版のお仕事だったり

1997年 22歳

この辺りからアレンジャーとしてのキャリアがスタートする事になります。

棚橋さんのスタジオにはボーカルブース(たまにドラムも録ってた)
があり、48トラックのレコーダー、GENELECのモニタースピーカー
AMEKやNEVEのコンソールにアウトボードなども揃っていて
空いている時間にはスタジオを貸してもらって沢山勉強させてもらいました。
自宅で作ったデモ音源をスタジオで聴かせてもらったり
ここで正しい音を学べたのはとても大きかったです。

僕もいつか自分でスタジオを持ちたい!
そんな風に思いながらお仕事してました。

バンマス、マニピュレーターとして全国ツアーに参加

1998年からは知念里奈ちゃんのツアーに
マニピュレーターとして参加する事になります。
(マニピュレーターとは同期音源、シーケンス 要するに生バンド以外の
打ち込みなどの音源の整理や機材周りを担当するお仕事です
曲をスタートするのもマニピだったりとライブにはとても重要な存在なのです)

23歳で初めてマニピュレーター、そしてバンマスの経験をさせてもらい
一日リハーサル リハーサル終わり自宅に戻り、
曲順や構成、音の修正
ライブ用アレンジ制作してそのままリハに。
みたいな地獄の寝れないループな時期もありました(笑)

ギターの高橋圭一さんにSE作るの手伝ってもらったりと
バンドメンバーの皆さんに助けてもらいながらツアーも完走。
マニピなのに最終的にはギター持ってステージに立ってました(謎)

この頃にはアレンジの仕事を色々頂けるようになって
同時に棚橋さんも所属されていた
武部聡志さんが設立した音楽事務所「ハーフトーン・ミュージック」
に所属する事になります。
担当マネージャーだった荒井さんはその後独立して
2002年「有限会社ソリッド・フォース」を設立。


その後、僕もソリッドフォースの立ち上げメンバーとして移籍する事になります。

つんく♂さんとの再会

2000年
バンドがメジャーデビューする頃からしばらく会っていなかった
つんく♂さんとスタジオで偶然再会します。

レコーディングのために某所スタジオに行き作業をしていると
スタジオの人が「今日つんく♂さん隣のスタジオ来てますよ〜」
と言っていたので隣のスタジオに挨拶にしに行くと
「おまえここで何やってんの?」と(笑)
僕「色々あってアレンジャーやってます!」
確かそんな会話だったと思います。

その頃偶然事務所の方にアップフロントの制作チームが
新しいアレンジャーを探している
という連絡があったようで僕の資料も出してもらい
とりあえず何かの曲をやってみよう!と
アレンジさせてもらう事になります。
最初にやらせてもらった曲は後に後藤真希の2ndシングルのc/wになる
「LIKE A GAME」だったと思います。

僕は当時The Prodigyやマリリン・マンソン などのデジロックにハマっていて
そんなデモテープを色々作っていたので
そういうテイストのサウンド感を面白いと思ってもらえたんだと思います。

その後、誰の曲なのかも教えてもらえないくらいトップシークレットなまま
アレンジをしていた楽曲 後藤真希のデビューシングル『愛のバカやろう』
を作る事になるのですが

これはまた次にします。

今回はこの辺で!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?