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讒文芝居

「彼の頃」……。

 今は流石に線引き出来ないのが解るし、大人だから捌けて居るけれど、
十代の頃「ペット(愛玩動物)」全般を見るだに
「人間の価値観」を得手勝手に当て嵌め
「感情移入」が止まらず嘔吐して仕舞って居た。

 「デビルマン」とか「アシュラ」、「ばらの坂道」
──── ジョージ秋山先生の一連の著作
「わたしは慎吾」とか「クトゥルー神話」
「鳥人体系」、「家畜人ヤプー」とか「猿の惑星」
「ミノタウロスの皿」等等、最近では虐殺器官……。
倫理観や人間と世界の境界(マージナル)を穿る各種哲学書
劇団天井桟敷と乎、平山夢明先生、各種スカム(屑)小説
京極夏彦先生やら各種文学、各種カルト映画やらラノベ、アヴァン・ポップ
各種ノイズやハード・コア、デス・メタルやら味の濃ゆーい
濃縮サブカルを取り敢えず、暴飲暴食し捲くって、無理繰り咀嚼。
如何に乎、青春の終わりに、
山の如き堆く聳える、知らぬでも宜しい夥しい護美知識の山の麓で

己と世界を如何でもイイと想える位置に据える事が出来度が、当時は

 犬猫、爬虫類鳥類でも「生まれ度途端に親元から誘拐然れて、
進化した猿共に拉致監禁強制収容然れて一生を終える」と
自分に置き換えて地獄を感じて仕舞って居度。
然も、犬猫の立場にしてみたら既に「一族郎党野生の状態が封じられて」
管理然れて仕舞って居る暗黒郷(ディストピア)。
猿の惑星選り、猶太人大量虐殺(ホロコースト)選りも
場合に拠っては、ヒドい状態じゃあ無い乎と。

 京極先生も御作の裡で京極堂に「凡ての愛玩は虐待だ」と云わせて居るが(其の割に京極堂自体は猫を飼っている。
シリーズの後後、警察に捕まり云い訳も儘為らぬ関口君を
「責めて、人を殺しても生きる様な度胸が在れば」と皆が云う行が在るが
結局然う謂う
「一方通行じゃあ無く、幾重もの遁げ路が人生には必要で、
多少、厚顔無恥で残酷で老獪に融通が利く位じゃあ無いと
生きて往け無い」ってこってす喃。
イイ気で蜊蛄(ざりがに)やら甲虫は疎か犬を飼って居た事自体に
罪悪を感じて仕舞って、何と乎捌けた只今も動物は飼えぬ。
まあ、常日頃、何喰わぬ貌して
大量虐殺した動物や魚類の肉を旨然うに喰らってんのだが。

 其れで「菜食主義者(ベジタリアン)」に奔る人も居るが
「植物も喋れ無い、感情を発露然せ足り考える器官が無い、人間的価値観や倫理が無い」丈で「一緒(で在り、価値観なぞ浅薄喃人間の理屈)」
だよ喃。と気附い度。口の中の細菌だって毎日死滅して居る
歯磨きせずとも。完璧な「不殺」は無いと。其処でなんとか保ち直し度。
結構、色ん喃デス・メタル勢が菜食主義者(ベジタリアン)喃のは其の遍で
思考が停止し為て居るの乎も知れぬ。違うの乎も知れぬが。

 未だに齢七十にして考え方が奇跡的中二病の重度の鬱病の母が
摩訶不思議だと云う問い
「他の人は然う謂う悩みで心を私みたく毀さ無いで
何で済んで居るの乎知ら」の答えも此処に在る。

 「大人は生きる為に其ん喃に『ヒマ』じゃあ無い」と謂う
身も蓋も無い結論だし、皆、煎じ詰めたら想い詰めるのも、
閑が生む道楽だし
生きる業(カルマ)凡てが「間違って居る」のに気附いて仕舞う。
(高畑勲監督「かぐや姫の物語」)
だから「或る程度」で考えるのを止めるので在ろう。

 大体の鬱病の友人は「然う謂うの」を考えるのが止められ無く為って、
拗らせる乎、死んで逝っ度。
筆者が生きられたのは、生来の「都合の好い、好い加減喃楽観主義」と
「デス・メタル」や「プログレ」、
「スティーリー・ダン(ドナルド・フェイゲン)」
如何でも宜しい「画の落描き、字の落書き」の御蔭で在る。
取り敢えず、描いて(書いて)居る裡は棚に置いとけるからだっ度。

 生きる為に描かず(書かず)に居られ無乎っ度し
只今も描く(書く)事で生か然れて居る。

●ヤプーズ「ヒステリヤ」

●ヤプーズ「Not Dead Luna」

●サカナクション「僕と花」

●星野源「地獄でなぜ悪い」