色々考えた事、久々に書いてみた事

初投稿であるにも関わらずタイトルに”久々”などという言葉を使ったのには訳がある。昔(と言ってもそれ程遠いわけではないが)よく酔っ払って巷で流行るSNSに書き殴っていた時期があったからだ。

それはさて置き・・・文章には不思議な力がある。いや文章を書くという行為に不思議な力があるのだろう、と私は信じている。

思い悩む時、何をやっても上手くいかない時、誰かと関係が拗れる時、思い描いた現実が目の前にない時、それでも自分を振り絞り、もがこうとする時、人は酒を飲みその思いを少しの自己正当化というスパイスを加え他人に話す。気を使う友人は共感するエピソードを語ってくれ、気を使わぬ友人は叱咤をくれる。

そのどちらも耳に心地よく、飲み終わった後は”嘔吐”するように曖昧な結論がそこら中にぶちまけられる。悪臭を放ち実社会では何の役に立つかわからないロジックが醸し出す匂いには少しの救いを感じるのだ。これを人は”慰められた”というのではないだろうか。

勘違いなきようにいうと、これを駄目だと言っている訳ではない。私自身も浴びるほどに酒を飲み、何度もこの”嘔吐”を繰り返してきたのだから。

良いこととは言えないが悪いことばかりでもなく、成功した奴は運が良かっただの、やはり公務員が一番さなど、嫉妬のあらしが会話に吹き荒れて一番高いはずの大黒柱が突風で吹き飛ばされて俺と同じぐらいの身長になってるのをみた時にはただただクズ折れた柱に両手両足しがみつかせたものだよ。(40オーバーのギャグやね)

何を言ってるのかさっぱり分からない訳であるが、言いたいのは他者と飲み語るという行為にはやはり自己弁護なるものが絶対の憑物なのだ。どこまで自分を律しようとも限界がある。人間の感情なんてものはそこに関して無防備だろう。しかし自己憐憫に溢れた文章はそんなに嘘つきには徹しきれない。なぜなら嘘八百の文章など二行も書けば終わるし嘘の自分は薄いからだ。

格好つけた言い方だと”自分と会話している訳”だから、嘘八百並べ立てるなどかなりむずいし、とは言え誰かにそんな文章を見られるのは人前でセックスするより恥ずかしい訳であるが、それでもきちんと自分に向き合えば文章は書けるし、書いてるうちに何だか他人と”嘔吐”するよりも気持ちが晴々している時がある。(まあ本音が言えてるって事です)

無論それは孤独だが、自らの反省点も浮き彫りにしてくれる。しかし反省点ばかりを考えることも良くないし、調子にノリ過ぎるのも良くないし、人生楽しければ良いわけではない子持ちの人や、責任の中苦しみ立派な人もいて、果そうと思っていた責任も果たせず、叶うと思った何かに届かなかった人達、自らに問う様にもう一度問う。

”あなたに足りなかったものは何だったと思いますか?”

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