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彼のいた世界といない世界で考えつづけていること

この3年半以上
あの時からずっと考え続けている
あの日あの時間に『どうして春馬くんなの?』と思った時から。
最初は、何が起こったのかわけがわからなかった。
そしてさほど熱心に追っかけをしていたわけではなく、緩くずっと追っていた自分の緩さも責めた。

自分が熱心に追っかけをしていたら事態が変わっていたかなんて思っていたわけじゃない。

ただ 今考えたら
唯一無二の同じ時間を過ごせていたのに
そんな時間が未来永劫どこか続くと思い込んでいた自分の愚かさにだ。

人の時間はあっけなくて
あっという間に指の間をすり抜けていくものだと知っていたのに。

春馬くんはいつも明るく未来を語っていた。
でも熱心なファンはそんな彼に
どこか不安を持っていたと後から聞いた。

あの光のような彼の影のような部分を
知ろうとはしなかった。
それはそれで良かった気がする。

彼は光であろうとし続けていたのだから。

世間は、いろんなことを今でも言っている
真実は彼にしかわからないのだから
本当のことなどきっと誰にもわからない。

これが真実なんです!と例え言われたとしても
私はたぶん信じないかもしれない。

それぞれの中にそれぞれの彼がいて
人は自分が信じたいことしか信じない気がしているから。

起きた事実を知ったあの瞬間からなにかが
大きく自分の中で変わってしまった気がする。

彼がいた世界と
彼がいない世界
私であるのは変わらないのに
自分の中でもなにかが大きく変わってしまった。

それは私の想像でしかないが
あの瞬間彼の中の一部の光や想いが砕けて
飛び散って彼とどこかつながっている
彼が言っていた「気にかけてくれる」人々の中に
その志しが届いてしまったような気がするのだ。

私はどんな光や想いを届けてもらったのだろう?
こんなことを考えてしまう私はやはりおかしいのだろうか?

あの時間から
自分が少しおかしいのではとずっと疑っている。
『彼』にとらわれている自分自身が
不思議で仕方がなかったから。

私の考えている彼と実際の彼は違っていて
実際の彼がわたしの思う彼に想像力が逞しすぎると苦笑いしている姿さえ目に浮かんでしまうのだ。

そんな私の想像力は、この事態を彼は確かに
悩み大きい苦難な時は過ごしていたけれど
それは彼の人生の大きな節目と時代の嵐が
ぶつかってしまったことで起こったことでも
あって、けれどそれによって
言われているように
『生きる気持ちが無くなってしまった』
というようなものではなくアクシデントだったのだとどうしても思ってしまうのだ。

だってやりたいことも
会いたい人もあり過ぎるくらいに
抱えていたでしょう?

どう考えても『生きたかった』はずだし

だけどそれは誰かの力によって
無理やり実際に捻じ曲げられたものではない
と思ってしまうんだよね。

自分たちの都合で翼を折りたかった人たちはいたと確信もしているけれど。

また実際の彼が
想像力逞しい私の想像の彼にたいして
苦笑いしている気がするけど
どうか許して欲しい。

私はアクシデントだったのだと
彼は生きたかったはずだと
どうしても思ってしまうのだ。

そんなわけで現在の私は
この自分の想像を採用して信じている。

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