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幸せのハードルとかいう言葉
私はこれまで「自分の幸せのハードルが低い」と言ってあたかも私は欲が少ない人間だみたいに書いてきた。でも書いているうちに、これは低いのではなく、結局幸せのベクトルが違うだけでハードルという点に関して言えば他の人となんら変わらないのかもしれないと思うようになった。
私の中のこの「幸せのハードル」というものは、これまで走り高跳びのハードルのようにただ一方向に高く伸びていくようなイメージだった。結局たぶん世間一般の究極的な幸せのあり方みたいなものが高いハードルの位置にあった。それに比べたら私の幸せを感じる写真を撮ることだったり、温泉に入ること、そして一人で楽しむことというのは下位の幸せだと思ってしまっていた。
でも考えてみると私は世間一般の誰もが思い浮かべる究極的な幸せが必ずしも私の幸せと合致するか、と言われたらおそらく合致しないものの方が圧倒的に多い。合致しないどころか私には少々居心地悪く感じることでさえある。
それに対して私は私の幸せに感じることに関してはかなり貪欲に動き、自分の幸せに合致しないものは可能な限り排除したいと思って生きている。私は自分のこと多少なり難ある人間だとは思っていても、それが自分を嫌いになる理由にはならなくて、むしろ結構自分のこと好きなのだ。そんな他ならぬ私の幸せを実現したいと思って生きている。
そう考えると、結局私は別に幸せを感じるハードルが低いわけではなくただ単に世間一般の人が感じる幸せという感情を別のルートで感じているだけなのではと思う。
ここでまた「世間一般の人と自分」とまた切り離してしまったけれど、もちろん二項対立ではなくて人それぞれ十人十色幸せを感じるルートは違っているのだと思う。それは高い低いとかなく、どのルートでの幸せも等しく同じ価値のある幸せとして捉えられるといいなと思う。
最近引っかかっていたこの言葉が少し自分の中で解けてきたから、ここに記します。最近純粋に楽しいだけの記事書けないから土日は一旦頭を空っぽにして、GRでも持ってまたお出かけしようかな。
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おわり。
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