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森羅万象/バトル母娘百合まとめ

 ───ようこそ。
 こちらはフォロワーさんの参加企画として「募集した武器を題材にした近親バトル百合を描く」という企画。
 そのうちの母娘百合……母親と愛娘の絆と、戦いの記録を紡いだ10の短編集です。
 産み、育み、愛の形を万化させ、活路を開く女性同士の絆をひと時お楽しみください。


【タチキリ奇譚】
武器:巨大鋏

 師匠を初めて抱いたのは、“ピノッキオ”としての初任務を終え、体を突き動かす高揚に流されるままのことだった。
 それ以来、魔縁を討つ度に私は師匠に迫り、夜這いをかけ、時に誘惑し、時に彼女自身から誘うようにすら促し……世の平穏を守るのが目的なのか、夜の充実を図るのが目的なのか、正直自分でも解らなくなっている。

「キリカ───お願い、いじわるしないで……」
「いじわるだなんて、傷付くなぁ。師匠を一番よくしてあげたいから、頑張ってるんですよ?」
「あ、あ……謝る、謝りますからぁ……」

 師匠は私と母娘くらい年が離れているけれど、夜の経験はほとんど無いらしく、最初は私の若さからの情熱に負け、今は愛しい人を悦ばさんとする日々の研鑽に負けている。魔縁と戦う際の凛々しい顔が、遥かに年下の私に焦らされて蕩ける様は、闘争に猛っていた私の精神をいつも日常に引き戻してくれる。
 魔縁。本来は仏教でいう三障四魔、特に第六天魔王波旬を指す。あるいはそこから更に中国の故事を取り込み、いわゆる天狗……傲慢に溺れ魔界に堕ちた怪異を含めたりもする。
 私たち“ピノッキオ”が戦う魔縁は、強いて言えば天狗に近い、人より変じた怪物だ。嫉妬、懊悩、憤怒に憎悪、時には重すぎる愛情まで、感情が頂点まで達した時に、顔が螺旋の如く渦巻いて猛禽の嘴のごとく尖り突き出る“天狗の鼻”を得ることで現界する。
 超常的な身体能力、あらゆる攻撃を介さぬ防御障壁、更に周囲の負の感情を増大・暴走させる異能を持ち合わせ、変じる前の人間の性質や技能を用いた罠や策すら仕掛けてくることすらある。1体出現しただけで都市レベルの危機となる彼奴らを、人に戻すことで討伐できるのは私たち“ピノッキオ”……正確に言えば“ピノッキオ”だけが操れる大鋏のみだ。

「魔縁の防御障壁の正体は、傲慢さにより引き起こされている絶対的な他者否定。それを私たち“ピノッキオ”が、基本的には2人で以て鋏を使い“天狗の鼻”を断ち切ることで、世に他者と良縁のあることを教える訳です」
「つまり、私と師匠の愛の力でひねくれ者の非リアの心を叩き折ると」
「キリカ……貴女はもう少し他者に優しくなるようにしてください」

 呆れたように言う師匠に愛想笑いを返しつつ、私の心の中ではいつも1つの言葉が浮かぶ。
 ───貴女がそれを言いますか。
 物心のついた時には私は1人だった。家族は死んだのか、捨てられたのか、それすら分からないまま、獣のように路地裏で生きて来た。
 優しさや慈悲の実在を否定するほどは馬鹿じゃない。けれど自分には縁遠いものだと考える程度に、そこでの生活は常に殺伐として余裕のない物だった。
 そんな場所だから魔縁なんてものが発生したが最後、人間同士で醜く争い、押し合いながら狩られていくだけという地獄絵図が広がった。
 そこで私を救ってくれたのが、師匠───歴戦の“ピノッキオ”であるヒタチだった。師匠は何故か1人で戦う珍しい“ピノッキオで、殺されかけていた私を颯爽と救い出し、何の気まぐれか引き取って優しく育ててくれた。最初は“ピノッキオ”にするつもりすらなく、ごく普通に穏やかな人生を歩ませてくれるつもりだったというのだから、聖人が過ぎるだろう。
 それが気まぐれ故ではなく、師匠が聖人でもないと知ったのは、他の“ピノッキオ”たちのことを知ってすぐだった。
 “ピノッキオ”同士で連携したり協力したりはほとんどなく、互いの素性すら知らず横にゆるく繋がるだけ……そうだったのは師匠の世代まで。
 若年の“ピノッキオ”同士が情報交換などを行う秘密のSNSハブで、私は“ピノッキオ”が基本的には血の繋がりのある親子同士でしかなれないという事実を、師匠が“何故か”教えてくれなかった事実を知った。なるほど、家族の絆はどれほど世が荒れても必ず一定は“供給”が望める。
 つまり。師匠が1人で戦っているのは。私が1人で路地裏にいたのは。
 私の、お母さんは。
 初仕事の際、大鋏で以て魔縁を人に戻し、それがほぼ確実だと知ったその日に、私は師匠を抱いた。師匠は抵抗しなかった。それどころか、どんどん私との関係に溺れた。許されている気持ちになったのかもと、今は思う。
 今夜も私たちは世を守り、夜に溺れる。
 如何なる理由があったのか実の娘を捨てた母と、実の母親にどんな感情を抱いているのか分からぬまま劣情をぶつける娘。これもまた魔縁と言えるかもだが、私の顔が尖り出すことは未だなく。
 嫌がらせに「他の“ピノッキオ”とも会って戦い方を学びたいです」等と言ってみる。
 師匠は一瞬目を泳がせて「どうかしら、皆忙しそうですから」と嘘を吐く。
 “ピノッキオ”なのに伸びない鼻をふざけてガブリと噛んでから、私は師匠を今夜も押し倒した。


【母娘颱風!!】
武器:拳(無手)

 必要な踏み込みは、僅かに半歩。あとは拳を僅かに前へ突き出すのみ。
 ただそれだけの動きで放たれた小柄な少女の一撃で、大の男が宙を飛ぶ。
 突き出された刃物は鍛え抜かれた手刀で叩き折られ、拳銃から放たれた弾は魔法のようにかわされチンピラ同士で撃ち合う始末。
 9人もいたチンピラたちは1人残らず叩き伏せられ、その場には静かに残身を行う少女だけが立っていた。
 可憐な容姿をチャイナドレスに包み、しかしよく見れば柔らかに見える肌の下は全てが筋肉。表面積を広げる代わりに密度を高めた鍛え方で以て、少女のあどけなさと拳士の苛烈さを同時に持ち合わせる彼女の名はミンユェ、この町の用心棒である。

「バ、バケモンだぁ~!逃げろォーッ!」
「お、置いていかないでくれェ―ッ!」
「2度と来るなよ、軟弱者ども!」

 折れたナイフの柄を蹴り上げぶつけながら、舌を出して言い放つ姿は先ほどまでの鬼神の如き暴れようからは考えられないほどに、年相応の少女であった。隠れていた町の住人達も、次々に姿を現してミンユェを持ち上げ、感謝を告げる。

「ありがとう、ミンユェちゃん!」
「今度ウチの店で食べていってくれよ!」
「ミンユェがいてくれればこの町は安泰だぜ!」
「いいって、お礼なんて。それよりも、困ったことがあったら何でも言って。これは、母さんの罪滅ぼしなんだから」

 そう言葉にしたミンユェに、町の住人達はなんとも複雑な表情を浮かべた。

「ミンユェちゃん、レイランさんにも何か考えが……」
「どんな考えがあっても!困ってる仲間を放っておくなんて駄目だよ!大方、あのこっぱずかしい二つ名を恥じてるだけに違いないんだ!なんだよ、拳法家の二つ名で“裸踊り”って!」

 比較的貧しい人々が集うこの町は、無茶な地上げやヤクザの買収の対象とされることが多い。警察も当てにならない中で町を守ってきたのは、ミンユェの母・レイランであった……と、言われている。
 彼女は自分の戦う姿を町の人々に見せたがらず、拳法家であることと“裸踊り”という不名誉にしか聞こえない二つ名だけが知られていた。ミンユェが生まれ、夫が亡くなった頃から彼女が戦うことは一切無くなり、治安の悪化に少なからず影響しているのは事実であった。
 独学で拳法を学び町を守る役目を勝手に引き継いだミンユェは、戦わない母に対して怒りを隠そうとせず「そもそも相手に裸踊りで媚びてお帰り頂いてただけじゃないか」等と言い始めることすらあった。
 町の者たちも実際に見たことはないレイランの戦い方を弁護できる訳がなく、ただ母娘がいがみ合うのを悲し気に見つめるのみである。
 そんな視線に居心地の悪さを感じたのかもう一度なにかあれば自分を……母では無く自分を頼るように言うと、ミンユェは己の家へと駆け去った。

「お帰りなさい、ミンユェ」

 ミンユェが家に帰ると、母・レイランは必ず彼女をそっと抱き締めて背中を撫でてくる。わずかな化粧と、汗の匂い。この時間がミンユェは苦手だ。
 レイランは、とかく覇気というものの感じられない女性である。いつも穏やかに微笑み、ミンユェにとても優しく、どれだけミンユェが無茶を言おうと、正面から意気地のなさをなじろうと、困ったように眉を寄せるばかり。
 体つきも鍛えてはいるようだが、ミンユェに比べればふっくらと肉付きもよく、それがまた鍛錬を怠っているように見えてミンユェを苛立たせる。
 自分を優しく抱きしめているこの体を、下卑た男たちに見せて許しを請うていたのか。
 そう思うとカッと体が熱くなり、ミンユェは母を突き飛ばした。

「痛いわ、ミンユェ」
「母様!町にまたガラの悪い連中が押しかけてるよ!」
「そう、危ないことはしちゃ駄目よ?」
「ふざけないで!どうして母様が戦わないんだ!名のある拳士だったんでしょう!?“裸踊り”なんて不名誉なものでも!」
「……私はもう、戦うことを下りたのよ」

 わざと傷つけようと荒げた言葉にも、母は相変わらずの困ったような笑みを浮かべるだけ。ミンユェの苛立ちはどんどん高まっていく。
 このままいっそ、頬でも張り飛ばしてしまおうか。
 そう思い手を振り上げるのとほぼ同時に、出入り口が乱暴に開かれた。

「こんにちはぁ。ここに“鉄拳小姫”……ファン・ミンユェはいるかしらぁ?」

 異様に露出の多い服を身に纏う、褐色の肌の女。背は異様なほどに高く、豊満な体を見せつけるような高慢さが全身からにじみ出ていた。背後に手当てを終えたばかりと見えるチンピラたちの姿が覗き、この女の素性を知らせている。

「お前が町にちょっかいかけてる奴の黒幕か!」
「悪党みたいな言い方はやめてちょうだいな。私がやってるのは美化活動よぉ」
「ふざけるな!」

 カッと頭に血が上る。母に感じていた怒りも上乗せされ、ミンユェは次の瞬間には相手の懐へと踏み込んでいた。

「え、速……!」

 女の驚いた声。派手に登場しようが末路は同じだ。
 踏み込みは半歩、突き出す拳は僅かばかり。それで大の大人も宙を舞う。
 ───異様な感触が、拳を覆った。

「なっ……!?」
「ふふっ……思っていたよりずっと速くて鋭いわねえ。でもざぁんねぇん」

 ミンユェの必殺の一撃をまったく意に介さず、女が無造作に手を奮う。ただの薙ぎ払い。しかし、丸太で殴られたような凄まじい“重さ”を感じた。

「っが……!?」
「こういうの古臭いと思うけど、名乗ってあげるわねぇ……“要塞”のホンフゥ姐さんと言えばアタシのことよぉ」

 卑怯だ何だと言っていられる相手ではない。そう判断して自己紹介中にも連撃を叩き込むが、ミンユェの攻撃は一切相手に通らない。いや、通ってはいるのだが、まるで固いタイヤでも殴っているような感触なのだ。

「凄いでしょ?中に色々仕込んでぇ、内部破壊を完全無効にした拳法殺しの体なのよぉ……内臓も、骨も、神経さえも痛めつけるのはほぼ不可能……大砲にだって耐えきる自信があるわぁ」
「ぐぅ……!」

 今までも同じ拳法家や武器使い、傭兵崩れなどとやり合ったことはあるが、こんな“改造人間”と戦うのは初めての経験だった。チンピラのボスにしてはあまりにも異常な存在の登場に気圧され、じりじりとミンユェは後ずさりする。
 ───そんなミンユェの隣を、しゃなりとレイランが通り過ぎた。

「え」
「なぁに、おばさん?何の用」
「娘をいじめないで」

 トン、と打つというより触れるような拳。放たれる速度は穏やかで、しかし拳を引く速度はミンユェさえ目視できなかった。レイランはもう、自然体でホンフゥと名乗った女を見つめているだけだ。

「アンタ、何のつも……りぃ……い、き、きき……」
「あ、姐御?どうしたんですかい……?」
「あ、あがっ、ひぎっ、か、痒いっ!痒いッ!痒い痒い痒いィっ!」

 突如ホンフゥは苦しみだしたかと思うと、全身をかきむしりながら悶え苦しみ始めた。体の中は頑丈なのだろうが、爪でかかれた柔肌からは血が滲み、それでも 掻くのは止まらない。みるみるその美しかった褐色の肌は、赤黒く染め上がっていく。

「こ、この技、まさか……ジン・レイラン!?“裸踊り”のジン・レイランか!?」
「“裸踊り”って……あの“皮膚破壊”に特化した惨殺拳法使いの!?この辺りのマフィアがあらかた自分で皮膚剥ぎ取って死んでいったとかいう……!」
「今はファン・レイランよ。あなたたち、よくないわ。とてもよくない……せっかく我慢してたのに、溢れちゃうじゃない……」

 レイランはそう言って、男たちに微笑みかけた。ミンユェの見たことも無い顔。殺戮と破壊に酔い痴れる、淫蕩で残酷な殺法家の顔だ。
 ミンユェの時と違い、チンピラたちは悲鳴すら上げなかった。本当の命の危機を前に、わずかな労力の消費すら惜しむ真の意味での逃避。
 ───そして、足音が遠ざかった後、レイランはミンユェの方を見て、何時ものように困った笑みを浮かべた。

「町を守っていたなんて、大嘘よ。殴り殺しても罪の意識を感じない、そんな人たちが幾らでも湧いてくるから、ここに住んでいただけ。旦那だって、娘に私の技を継がせたかったから番っただけで、酒浸りで面倒になったから私が殺したわ」

 恐るべき母からの告白を、ミンユェは膝の間にすっぽりと収まるようにして聞いている。内容の恐ろしさ、身勝手さとは裏腹に、ミンユェの感じる母の温もりはとても優しいものだった。

「けど、ね。貴女が生まれて、大きくなって……生まれて初めて、人を殴り殺す以外の喜びを知ったの。貴女は本当に、本当に大事な私の宝物。私の人殺しの技なんて、もう継がせる気は無かった。ううん、拳法をすること自体、本当は怖かったわ。貴女をいつか“獲物”とみる日が来たらと思うと……」

 あのホンフゥさえ一撃で屠った母が、カタカタと小さく震えている。非道な告白でありながら、それを放つ彼女はあまりに弱々しく、町の人々と同じ庇護の対象としてミンユェには映った。

「母様……私、強くなる。今日のようなことが2度と無いように、母様が拳を握る日が来ないように!」
「ミンユェ……でも、私は恐いわ。貴女と戦ってみたい、貴女を……壊したい。そう思う日が来るかも知れないって……」
「なら、その時は母様を止めて見せる!あらゆる意味で、殺法家の母様を私が越えてみせるから!」

 母の手をしっかりと握り返すミンユェ。あれほどの暴力を見せつけたレイランは、ただ娘の背中に鼻先を埋め、無言で肩を震わせる。
 母娘はそのまま一夜を過ごし、互いの拳が離れることは無かった。


【貫きの午後】
武器:ブランディストック(西洋仕込み杖)

 足を悪くしてから、母は散歩を日課にするようになった。
 動かないでいるとあっという間に体がなまると言って、杖を手に町をぐるりと一周。午後2時から初めて午後5時には家へ帰る。それを続けて、もう2か月。
 私はと言うと、心配なのと暇なのとデート気分が味わえるので、4:3:3くらいの気持ちの配分でいつも散歩に付き合っている。

「いつもごめんね、藍里」
「いいよ、私も運動不足だから」

 表向きは気遣いの言葉。けれど、聡い母はすぐにその運動不足の理由が私にあることに気付き、顔を少しだけ曇らせる。
 この瞬間が、正直たまらない。いつも私を導いてくれた強くて格好いい母が、私に対して感じる罪悪感。3時間を割いても全く損のない報酬だ。
 私と母は殺し屋だ。正確には、殺し屋だった。母は何かしらの信念を以て、私はただただ母の側にいたいから、人を殺め、他人の命で金を買って生きて来た。
 この世で最も親密な関係は共犯者だと言ったのは誰だったか。私たちは共犯者で、しかも親子だ。これ以上に親密な関係などこの世にありはしないだろう。そう、さっさと一人だけくたばった父親なんかより、私は母と深い関係なのだ。
 だから、母が足の負傷を理由に引退を決意した時は、私は最初1人だけで荒海に放り出されたような絶望を味わった。いつかは来るかもとは思っていたが、これからは私は1人で人殺しとして歩み続けなくてはならない。信念もなく、理由も享楽もなく、それしか生き方を知らないから。
 けれど、すぐにそれが勘違いだと気付いた。女2人、生きていくためには稼がなければいけない。だけど、それよりも前に、新しい生活になじまなくてはならない。
 いつも自分の身の回りのことは完璧にこなしていた母が、私に依存しなければ用も足せない。ずっと見つめることしかできないと思っていた宝石が、突然転がり込んできたような歓喜……そう、私は母が怪我をしたことを、今で確かに喜んでいる。
 人通りの少ない路地に2人で入る。刺激に欠ける町だけど、この路地だけは別だ。刺激に欠ける町だからこそ、と言えるかもしれない。
 入ってすぐ、反対側から歩いてくる黒いコートの人物。人ごみならまだしも、こんなところじゃ逆に目立つんじゃないかと思う。様式美なのかも知れない。
 母も私も意に介さず、コツコツという杖の音と共に進み続ける。狭い路地、すれ違うにはそこそこ気を遣わなくてはいけない。母は少しズレて道を譲る。黒コートは……胸元からナイフを取り出そうとする。
 胸元に入れた手は、その役目を果たすことなく心臓ごと刃に貫かれた。
 母の手にした杖から飛び出す、槍の穂先。ほんの僅かな手の動きで引き出し、武器を取り出す動きを潰しながら一撃で殺める。現役時代からの得意技は、足を悪くしようが、獲物が暗器に変わろうが何も変わらない。
 声も出せずに絶命した相手に、私は薬品を振りかける。浸透圧と電気信号を傷口から入り込んで操作し、一定距離を歩行させてから死体に戻す、通称“ゾンビパウダー”。蹴って起こした死体は、ギクシャクと不自然に動きながら大きな通りの方へと去っていった。
 私が淡々と処理をする間、母はずっと俯いて何かを考えているようだった。

「母さん、どうかした?」
「……私は、いつまでこんなことを続けるのかしら」

 ある種の信念を以て人を殺すことを生業に選んだ母は、しかし当然ビジネスライクで居られないが故に多くの敵を作った。引退後も、こうして定期的に刺客が送り込まれてくる程に。
 理想の為でもなく、信念の為でもなく、ただ生きる為に他者の命を踏みにじることは、ゆるゆると母の心を蝕みつつある。
 勿論、私はそれがよく解っているので……その行いに、理由づけをあげるのだ。

「母さん、考えすぎないで。私だって危なかったんだから。母さんが私を守ってくれたんだよ」
「藍里……そう、そうよね……」

 日常生活も私なしでは暮らせない母。もう仕事で私を養うこともできない母。あとは信念であった他者の命を奪う行為も、私の為へと塗り替えてしまえばいい。
 最初に散歩に出た時は、きっと“報い”を受けに行くのだろうなと思ったのだ。だから私はそこに同行し、杖をこっそり仕込み槍に代えておいた。死の世界へなんて、母を引き渡すつもりは無いのだから。

「帰りましょうか……ええ、少し市場でお野菜でも見て行きましょう」
「私が持つから、遠慮なく買っていいよ」

 ───どれだけお金を使っても、いずれは回収できる。私の為に人を殺せるようになれば、引退なんて必要ない。傷を負った足でも殺せる相手で、2人して稼げばいいんだから。
 私が母の信念を貫く為に用意した武器を見つめる。母の手の中で歩行を助けるそれは、つい先ほど血を吸ったことなどまるで感じさせず、銀色に輝き続けていた。


【科学ノ夜】
武器:サテライトキャノン&グラディウス

 ───人類は“妖精”に敗北した。
 様々な形で伝承として伝えられていた彼の存在たちは、20××年に人類に突如接触。魔法、神秘、奇跡……そう呼ばれるに相応しい様々な技術や事物を提供し、代わり細やかなコミュニティの設置を世界中に要求した。
 既存の技術を上回る可能性を持つ革新の数々に、人類の目は大いに曇り、妖精たちの世界中への移住は推奨され、彼らに由来する神秘技術の時代が地球に到来した。資源問題は解決し、自然破壊は緩やかに回復が進み、人類は少しずつ先祖の作り上げた“搾取の文明”を捨てていった。
 そして、それらが一定進んだところで……妖精たちは一斉に蜂起し、人類を殺戮して回った。一度も武力的な接触のないまま同居人として受け入れてしまったが為に、人類が妖精に対して一切の魔法技術が通用しないと知ったのは、世界大戦が本格的に勃発してからのことだった。
 妖精たちによって浸食された技術は抵抗に置いて一切通用せず、骨とう品として残されていた純正な科学技術だけが唯一の抵抗手段となった。それもほとんどは耳障りのよい言葉の数々によって放棄されており、人類の旧生息圏の7割が瞬く間に陥落。
 人類と妖精の主客は完全に逆転し、更にその僅かな生存権すら保証は何もない。妖精たちにとっての千年紀、そして人類にとっての黄昏が地球に訪れたのだった……。

 妖精共が輪になって踊っているのが見える。
 輪に無理やり加えられているのは、私と同い年くらいの少女だった。ガリガリにやせ細り、栄養不足で脱毛も目立つ彼女は、どれほどの時間踊りに付き合わされ続けたのか、既に膝まで地面で擦り切れ、妖精たちの作る輪の軌跡を朱に染め上げていた。あるいは、もう死んでいるのかも知れない。その方が、きっと幸せだろう。
 奴らは古い伝承通りの行動をなぞり、理不尽とも思える“遊び”を人類に仕掛ける。踊りの輪に入れられた者は体力が尽きても舞踏に付き合わされ続け、子供を攫って醜い怪物と取り換え、人の頭皮や足裏の皮を剥がすことを好む。かつては知恵比べで回避できたそれらの行為は、人類社会との接触で知恵を得た結果、回避不能の厄災と化していた。
 どちゃりと少女の体が倒れ、羽の生えた妖精たち……フェアリーどもがキーキーと甲高く笑う。その声を合図にしたのか、地面から巨大な爪と口が突き出し、少女の細い体を飲み込んだ。バグベアー、子供食らいの妖精だ。単体だと魔法頼りで脆いフェアリーたちは、大抵こういった力自慢の妖精を“肉の提供”を条件に、自身の護衛につけている。
 少女の光を完全に亡くした目が、一瞬私の方を見つめた気がした。きっと、感傷ゆえの気のせいだろうけど。
 ただし、フェアリーたちがこちらへ向けた悪意に満ちた笑みは気のせいでも何でもない。ひらひらと光の粉を撒きながら飛来してくる羽虫ども……あと少し、もう少しだけ引き付けて。影の中に潜んでいるバグベア―も見落とさず。

「母さん、今」
『了解、発射するわ』

 轟音、閃光、破壊、陥没。
 ジェットブーツを使い思い切り飛びのいた私の眼前、科学の炎が妖精共を丸呑みにしていく。羽虫どもの間抜けな顔と、影から飛び出そうとしたバグベア―の開いた口が塵へと変わり、やがてそれすら残さず消滅させた。

「目標沈黙……でも、ちょっと近かったかも」
『ええ!?大丈夫なの、花南!?怪我してない!?』
「それは平気……でも、後でお仕置き」

 通信越しに、母さんが悶えているのが伝わってくる。どれだけ発情しても操作や索敵には影響が出ないのは、すごいことだと思うが素直に褒めにくい。
 ほとんどの国の正規軍が魔法兵器を採用した事から凍結され、上層部がそのまま妖精たちに皆殺しにされてしまった結果として放置されたとある実験施設。私が生まれるよりも前にそこに辿り着いた母は、その中で眠れる兵器たちを呼び起こし、私を“目”として鍛え上げ、妖精たちへの反抗を開始した。
 それが妖精どもの安寧を脅かすものになるのか、それとも取りに足らない抵抗の1つなのかは、あまり気にしていない。ただやらなければ気が済まない、母は何度も私に向かってそう語った。
 妖精どもは宇宙にはさっぱり興味がないらしく、放置されていた某国の攻撃衛星をハッキングした極大射撃。たかがフェアリー相手には過剰攻撃かも知れないが、母は特にこれを好む。ミサイルや誘導弾の類よりも派手なのがいいと。エネルギーのことやメンテのことなどは、私には難しくて分からないが、効率的とは言えないだろう。

「周りから妖精どもが集まってくるかも知れない。帰投しても……?」
『ええ、勿論よ……どうしたの、花南?』

 破壊の光が収まり、穏やかな陽光だけが照らす私の影。それが異様に大きかった。
 咄嗟にバク転で飛び下がった直後、数瞬前間で私が居た個所を巨大な犬の咢が凪いでいく。やがてその巨大な体躯が、燃えるような赤い目が、鋭い牙と爪が、影の中から立ち上がった。

「黒犬獣……ブラックハウンド……!」
『何ですって!?』

 妖精どもの中でも最強クラスの存在。標的を見定めればどこまでも追跡、粉砕して直進してくる魔性。耶蘇教の威光すらものともせず、教会を破壊し、名のある宣教師する食い殺したとされる怪物だ。人と妖精の大戦においても、残存していた戦車隊の猛攻で漸く討ち取れたとされる大物……ビームに巻き込まれてくれれば楽だったというのに。

「何かしら兵器の支援は出来る?」
『こいつの機動力を考えると難しいわ、基地まで引き付けてくれれば防衛兵器で援護射撃できるけど……』
「母さんを危険に晒せない……ここで殺る」

 護身用に渡されていた拳銃で、目と関節を狙い撃つ。
 素早く動き回る黒犬獣相手では、狙った個所に当てるのは困難だ。それでも皮膚に着弾すれば動きは止まるし、足にでも当たれば速度は少しだけ鈍る。倒せるかは別として、拳銃は極めて妖精に有効な武器だ。
 こいつが仕掛ける攻撃で最も厄介なのは、言うまでもなく一直線の突進。伝承でも町を滅茶苦茶に破壊するほどの威力がある。服の下にボディアーマーを仕込んではいるが、恐らく食らえば四肢がもげる程度では済まないだろう。
 距離を保ち、しかし突進するだけの距離は取らせず、ぎりぎり爪牙の届かない距離を保って射撃を続ける。マガジンがあと2つ、まだ余裕はある。
 ───私はこの時、こいつらが人間社会で長らくこちらの文明を学んでいたことをすっかり忘れていた。拳銃でもある程度ひるむこいつが、戦車隊相手にある程度渡り合ったのは何故か……こいつが戦術というものを理解しているからだ。
 マガジンを交換する瞬間、足元を襲う奇妙な浮遊感。私の影から覗く、黒犬獣の物と思わしき尻尾。体の一部を影に変え、隙が出来た瞬間に転倒させる。こんなことまで仕掛けてくるのか。
 狼や山犬を思わせる顔に、人間でも滅多に浮かべないほど苛烈な悪意を張り付けるという器用なことをしながら、黒犬獣はわざわざ少しだけ飛びすさり、こちらに向かい必殺の突進を仕掛けてくる。転倒した私は、精々それを受けることしかできない。
 ───こちらの狙い通りに。

「くたばれ、犬っころ」

 素早く抜き放ったのは、刃渡り50cmほどの短刀。古代ローマにおいての呼び名はグラディウス、“剣”そのものを意味する武器。それを真っ直ぐ前方に掲げ、盾代わりに構えて突進を受ける。
 黒犬獣は容易くその“悪あがき”をへし折り、私を胃の中に収めるつもりだっただろう。それは叶わない。
 鼻先に僅かに触れた個所からバターのように易々と切り裂き、黒犬獣は何が起こったかを認識する間もなく、自らの力で両断されて左右に分かたれすっ飛んでいった。体は影に変わり、陽光の中に消えていく。

『花南!無事なの、花南!』
「無事……でも“科学の夜”を使った」
『……!すぐにベースに戻って!』

 放棄された下水道の奥深く、恐らく人類抵抗軍を除けば人類最高最後の科学の粋が納められた秘密の基地。
 裸にされた私は母さんに後ろから抱き締められ、火傷の残る掌をくちくちと舐められていた。
 唾液による殺菌作用は、最近のリスクを考えればほとんどない程度のこと、仮にもこの基地とそこに秘められた技術を操る母には解っているだろう。けれど、これはきっと、科学の範疇に入らない“宗教”とか“儀式”の範疇なのだ。

「ああ、花南……ごめんなさい、いつも無理をさせて。悪いお母さんをどうか許して……」
「ちゃんと後で“許して”あげるから、そろそろ離してほしいかな……」

 聞く耳持たずに傷をなめ続ける母をそっと置きながら、私の手を焼いた“科学の夜”を見つめる。“科学の夜”はこの基地内で作られた武器だ。その製造過程、素材、保管に至るまで、魔法どころか自然物を一切介入させず、打ち上げる機械を作り上げる機械を用意し、素材も合金に合金を合わせて天然自然から遠ざけることで生まれた科学の申し子。妖精を始めとした神秘殺しの最終兵器。
 それによって手が焼け爛れる私。あの少女がもしまだあの時に生きていたとしたら、私はどう映っていたのだろうか。
 人間でもなく、妖精のそれとも違う、青い肌と蝙蝠の様な小さな羽を持つ私を。
 母は私を生む前にこの基地に辿り着いた。そして、私をこの基地で生んだ。では、その相手は何者だったのか?

「ああ、花南……愛しているわ、貴女こそ私の理想の体現者よ……」

 うっとりと紡がれる母の言葉が、私の思索を断ち切る。
 己の正体などどうでもいい。母の野望と衝動と、そして時々抑えられなくなる劣情に応えることこそ、私の生きる理由だ。
 とりあえず、すっかり高まっている母の胸に顔を埋めてみる。吐息に甘いものが混じり、怪我では無く指がしゃぶられる。
 そして今日も、妖精を狩った後の母娘の“日常”が始まるのだ。


【スイッチ・オン・アフタールイン】
武器:OSS踵ナイフ&FP-45

 吸血鬼。
 名の示すとおりに人の血をすすり、眷属を増やし、様々な超常の力と腕力を以て命を引き裂き穢す悪鬼。最初に“食事”を始めたものの趣味が繁栄されて続いているのか、多くは美男美女。それも手伝い、人と相対した時の威圧感は他の異形を大きく上回る。
 そんな絶対的優良種であるはずの吸血鬼は今───まったく未知の力によって追い詰められていた。

「ふっ!」

 恐らく人皮をなめしたものだろう、吸血鬼に対抗する防具としてはオーソドックスな衣装を身に纏う少女は、しかし攻撃においては全く“ありがち”では無かった。
 蹴撃。不死身の肉体を持つ吸血鬼に向かい、まさかの体術。
 かなり鍛えあげてこそいるが、それでも有効打には成り得ない。受け止めて、足から引き裂き血を啜ろうと手を伸ばし……“指を全て切り落とされた”。

「ぐっ、かっ……!靴に、何か仕込んで……!」
「正解!」

 頭部を狙った回し蹴り。それは銀の閃きを伴い、危険な軌跡を描く。防御では無く回避を選択し、人間相手に距離を取るという屈辱を味わされた吸血鬼は、その整った容貌を醜く崩し牙を剥いた。

「何かしらの聖別でもしているのか……再生が起こらない……!」
「そちらはハズレね。まあ、これは完全な新説だから察しろというのも無理があるか」
「母さん……また悪い癖?」
「そう言わないで。教会の連中は聞く耳を持ってくれない、なら獲物に語るしか無いでしょう?」

 自分に襲い掛かって来た女が、母と呼んだ熟女。吸血鬼の価値観に置いて年を取るとは醜くなることと同義だが、その女は熟れることで魅力を増しているかのように、妖艶な雰囲気を湛えて立っている。自身の美的感覚を否定されているようで、吸血鬼からすれば存在自体が苛立ちを引き起こす。

「そもそも、お前たち吸血鬼は何故再生している?お前らはノー・ライフキング……いわゆるアンデッドだ。代謝も止まっているし、血流も電気信号もありはしない。ならば、体が再生するのはある種の魔術的な効果によるものと考えられる」
「……興味がないな、出来るものは出来る、優れたものはその理由など求めない」
「私は優れていない人間だから答を求める。そこである仮説に到達した……お前たちは攻撃の際に受けた“悪意や害意”……攻撃の際の“敵意”を吸収して再生しているんじゃないかとね」

 女は気取って仕草で自分の持論を喋り続けている。今すぐ黙らせてやりたいが、それは危険な蹴撃使いの女への注意を怠ることに繋がりかねない。

「これは恐ろしい特性だわ……圧倒的な破壊力でお前らを殺めようとすれば、その分だけ回復・再生を促してしまう。教会のヴァンパイアハンターたちが十字架を用いたり、あるいは心臓に杭を打ち込むという儀式めいたことをするのは、宗教行為に見立てて“敵意”から攻撃を切り離そうという古の智恵ではないか、そう私は考えた!」
「……それが、何故仕込み刃物で私の再生を抑えることに繋がる?」
「“敵意”がもし感情を伴っているのなら、オートマタでも作ってぶつければお前たちは再生ができなくなるはず。けれど、人形遣いやロボット兵器はお前らに導入されたこともあるけれど、大した戦果を上げていない。ここでいう“敵意”とは、つまり感情の類を読み取っているのではなく、お前たち吸血鬼自身が外部情報として判断しているのではないか?それが私の仮説。そして、今証明が行われているというワケ」

 吸血鬼は話の途中にさりげなく蹴撃の女の足元に注目していた。踵から僅かに飛び出している刃物。恐らくは本来は実戦に使うものではなく、捕虜になった際の脱出などに使うものなのだろう。
 こう吸血鬼が判断してしまっていること、それ自体が己の回復を留めているというのだ。悔しいが、未だに指先は断面を晒したままになっている。

「カナ、もういいわ。仮説は証明された。更なる実験の為にも、この場に幕を下ろしなさい」
「はいはい……人使い荒いんだから!」

 カナと呼ばれた女が恐るべき練度の蹴りを放ってくる。吸血鬼は、敢えてその攻撃を受け、片腕を切り飛ばされながら……母親の方へと向かい、駆けた。

「なかなか聞かせる話だったよ!なるほど、我らが血を啜り傷を癒せるのも、消えゆく命が向ける怨嗟故の部分もあったか!ならば!母親である貴様の血で娘が付けた傷は癒───」

 銃声。
 頭に叩き込まれた一発の弾丸。呆れたような顔をしている母親の手には、玩具のような銃が握られていた。その見た目を自身が、無意識に“弱い”と捉えていることを認識した時には、もう熱さは全身を巡り、理性を焼いていた。

「もう成果の出た実験を重ねるのは、あまり興味がないんだけどね……カナ」
「はいっと……母さんに触れようとしてるんじゃないよ!」

 今度こそ銀の閃きは吸血鬼の首を狩り飛ばし、蹴りの威力のままに吹き飛んで頭部は壁に激突する。ぱきゃりと間抜けな音と共に頭蓋が弾け、吸血鬼の意識は永遠に蘇ることはなかった。
 靴底に隠れる程度の刃と、1発きりの弾丸の前に敗れた吸血鬼を前に、しかし母娘は偉業ともいえる行いに大して興味のない様子だった。

「仮説は一応の証明が出来た。更なる実験と考証が必要ね」
「私、少しは休みたいんだけどなあ」
「頑張って。全部終わったら、よしよししてあげる」
「それくらいでやる気出すとか、安く見過ぎじゃない?」

 そう言いつつも明らかに気分を上向きにした声音をあげるカナと、その横を上機嫌で歩む母親は、恐るべき吸血鬼の住居を立ち去っていく。
 あとに残されたのは2度と再生することのない、首なしの吸血鬼の死体だけ。悪意も敵意もない殺伐とした光景が、今後“夜の支配者”とまで呼ばれた強大な怪異たちに襲い掛かる暗澹たる運命を示しているかのようであった。


【ムフロンの庭】
武器:ククリ(グルカナイフ)

 ───どんな理由があろうとも、娘の傍に居られなかったことは事実。今更名乗り出る権利などない。
 シスター・アルテは家の都合で身売り同然に嫁入りし、子供を産んだ途端に放り出されるまでは、この世は善意で動いているものだと信じていた。
 借金を肩代わりしてもらえたはずの実家は更地になり、両親はとうに首を括っており、帰る場所を失った彼女が修道院に拾われたのが12年前。それ以来、自分の中に芽生えてしまった人間その物への諦観を鎮める為、神に仕える日々を送っていた。
 せめて娘は幸せに暮らしてるはず、そんな最後の希望が打ち砕かれたのは3か月前のこと。カルト宗教団体が起こした集団自殺の生き残りとして、様々な施設を盥回しにされた娘。彼女が自分の娘であり、自分を捨てた男も家もカルト団体に全てを捧げてこの世に居ないと知らされた時。
 他の子どもたちと区別をしているつもりは無いが、それでも悲しい来歴以上に愛情を注いでしまったことは仕方のないことと言えるだろう。最初は感情の表出がほとんど見られなった娘……パールと名前を付けられていた彼女は、今は屈託のない笑顔をアルテへと向けるようになり、本当の母親のように彼女を慕ってくれる。
 だからこそ、絶対に本当の母親であることは明かせないとアルテは考えていた……彼女の最期に残った人への信頼を砕いてしまうのは、根本的に人を信じられない自分だからこそ避けたかった。自己保身のエゴが、その裏にべったりと張り付いているとしても。

「シスター・アルテ」
「……え、ああ、どうしたの、パール?」
「今日も、一緒に寝て欲しいなって」

 はにかむようにして足元に抱き着いてくる姿に、たまらないほどの愛おしさが沸き上がる。この娘の為なら、何でもしてあげたいという気持ち。

「いいわよ、さあ、おいでなさい」
「やった!」

 パールは何時も持ち歩いている小さな鞄をベッドの下に置くと、跳ねるようにアルテの胸元に飛び込んでくる。安らぐ温もり。むしろ、アルテの方が癒されてしまう感触。12年間何度も夢見た光景。嬉しさと喜び、そして切なさと沸き上がるような悲しさが四等分。

「そう言えば、あの鞄の中って、何が入っているの?」
「えへへ、おともだち」

 パールは甘えるように胸にすがりながら答える。アルテ以外が触ることは好まず、彼女が開こうとした時も鍵が壊れているのか開かなかった、小さな鞄。彼女がカルト教団に居た時の持ち物ということは、父親が与えたものなのだろうか。深く考えすぎると気が滅入るので、パールを愛でてその感触を覚えることだけに集中する。

「(……この娘の為なら、なんだって出来るわ)」

 チラリと視線を向けた先には、ここひと月ほど毎日のように自身に当てて送られている手紙。とある貴族からの恋文……いや、それよりももっと直接的な、体を提供する代わりに援助を申し出る内容。
 アルテは暴力を伴ってパールの父親に抱かれた以外に、そういった経験は一切ない。嫌悪感を持ってすら居る。けれど、小さな教会の経営は苦しく、子供たちに出来うる限りのことをするには、教区の施設から貰う給金や塾の真似事で得る収入以上の金が必要だった。

「シスター、ちょっと苦しいかも」
「ああ、ごめんなさい。ごめんなさいね」

 思わず強く抱きしめてしまったことを謝りながら、改めてアルテは覚悟を決める。側に居られない間、どんな地獄を見たのかも分からない我が子。この子の幸せの為に、自らを惜しむなどそれこそエゴであると。
 ───だからアルテは、見えないように置いているつもりの手紙に向けて、パールがどんな視線を向けているか想像もしていなかった。

 ───その夜を体験した者で、比較的被害が少なかった者はこう語る。

「まるで死神に襲われているようだった」

 とある貴族の屋敷の警備についていた者の人数は21名。うち死亡者は13名、四肢のいずれかを失ったものが4名、精神に異常を来した者が2名。まともにこの夜のことを語れるのは2名しか残っておらず、彼らも死神などというオカルトじみたことを言い出す始末。
 ただ1つだけ確かなのは、その侵入者が恐るべき速やかさで警備を始末し、あらゆる通信や通報を妨げ、貴族の部屋へと僅か数分で到達したことだ。

「こんばんは、素敵な夜ね」

 返り血すらほとんど浴びていない、小柄な少女。
 世話になっている施設ではパールと呼ばれている彼女は、部屋に侵入するのとほぼ同時に貴族の喉に指をめり込ませ、くの字型の奇妙なナイフを眼前に突き付けていた。
 彼女自身はほとんど返り血を浴びていなかったが、ナイフは鮮血に染まり、凶行のほとんどがそれによって成し遂げられたことが分かる。

「護衛の質が悪いわね、あくどいことをするならもう少し気を遣った方がいい。来世では学習するのね」

 その言葉から相手が絶対に自身を生かしておくつもりが無いことを悟った貴族は、目だけで懸命に許しを請う。金なら払う、何でも言うことを聞く、そもそもなぜこんなことをする。
 それらを正確に読み取っている風なのに、パールは応える気は微塵も無いようだった。

「無理やり仕込まれたコレが、また役に立つなんて皮肉な話……本当なら教団の連中みたいに自殺に見せかけてやってもいいんだけど、ほら、見せしめって大切でしょう?おぞましいことをする何かが居る、それはある種の襟を正す理由になるんじゃないかしら……それが回り回って、お母さんの安全にもつながるという寸法」

 お母さんという言葉に僅かに反応したのがトドメだったのか。
 ずぷり、と目から刃を突き刺し、そのまま刃の厚い部分で下から頭蓋骨を割り、脳をひと混ぜ。2回ほど痙攣した後、貴族は鼻から髄液を吹き出して動かなくなった。少女は汚物を拭うように血を清め、小さな鞄に獲物をしまうと、すぐさま部屋を物色しだす……。
 結局、警察はこの凄惨な猟奇殺人の捜査中に、貴族が巧妙に隠していた裏金が全て奪われたことに気付くことは無かった。

『どうか健やかな日々をお過ごし下さい。神の愛があなた方に注がれ続けますように カーリー』

 カーリーと名乗る人物からの莫大な寄付は、この2か月ほどで3回目にもなる。
 自分に言い寄っていた貴族の死を不覚にも喜んでしまったアルテにとって、本当に善意の人であろうカーリーの存在は1つの支えとなりつつあった。もしかしたら、この世には本当に心美しき人も居るのではないかと言う、希望。

「よかったね、シスターアルテ」

 天使のように微笑む娘、パール。また少し、この娘の笑顔を保つことができる。母として名乗りでることは出来なくても、それだけでアルテは幸せを感じることができた。
 カーリーというのがヒンドゥー教の戦女神であり、パールヴァティという女神と同一視される……等ということは知らないまま。


【装甲忍者ミナヅキ零~母娘相愛編】
武器:忍者刀&手裏剣

 皆月数多が物心ついた頃には、母は完全に狂っていた。
 皆月家は、信濃国望月城主・望月盛時の妻であり、戦国時代における信濃巫の巫女頭……女忍者であった望月千代女を祖とする忍者の家系である。そういう与太を信じた先祖が何処かで居て、母である彼方もそれを心の底から信じていた。
 彼方自身は生まれつき体が弱く、ただただ娘を望月家の娘に相応しい忍者へと育て上げるという一心で、病に侵された体を押して今まで生きて来た人だった。狂人の意思は、時に強い生命力に繋がるものだ。
 勿論、数多はそんな与太など信じていない。大体、彼方の印象の中の忍者と言うのがもう、時代小説に出てくる荒唐無稽な忍術使いのそれなのだ。火を噴くとか、水の上を歩くとかそういう類。歴史学者に知れたら、正座の上で説教されることだろう。
 なら、数多はその旨を正直に告げ、母の目を覚まし、心が癒えるまで寄り添ったのかというと……違った。
 逆に目立ちそうな、無駄に露出の多い黒装束。背に差した忍者刀。懐には無数の手裏剣と撒き菱。母に見せた時、涙を流してまで喜ばれた姿で、数多が夜闇の中を駆けて行く。

「(仕方ないじゃない……お母様のこと、大好きなのだもの)」

 誰に言い訳するでもなく心の中だけで呟き、屋根から屋根へ、塀から塀へ、一目に触れぬように跳ね駆ける。目標は、軍の秘密の施設……と、母が信じている単なる廃墟。そこから何かしら、秘密の研究の証拠を持ち帰ることが目的だ。
 別にお国に逆らおうという訳ではない。むしろ逆、機密を盗み出すほどの望月流の実力を証明し、諸外国との緊張高まる国に徴用されることこそ彼方の夢であった。
 勿論、罪は罪として処断される可能性の方がずっと高いが、母の見る夢にとことん付き合うと決めた数多にとって、命は大して惜しいものでは無かった。
 ───数多は父の顔を知らない。
 母の狂信を考えるなら、単に娘を生むためだけの相手だったのだろう。幼い頃から忍者になれ、望月の使命を果たせと妄想を囁かれるのには辟易することもあったが、望みに従う限りは彼方は優しかった。

「本当に、貴女は私の誇りですよ、数多」

 初めて手裏剣を的に当てて見せた時。遊びのつもりでやったそれに、感極まって泣きながら抱きしめてくれた母を見て、数多は悟った。この人は、体だけでなく心も、この世界で生きるには弱いままで生まれてしまったのだと。誰かがこの人の盾になってあげなければいけないのだと。
 ……回想も終わる頃、件の施設が見えてくる。問題は、果たして何を機密とでっちあげて持ち帰るかということのはずだったが……この日の数多は“運が良すぎた”。
 どうせ誰の姿もあるまいと、勢いよく飛び込んだ建物の前。調度出入り口から姿を現した、大きなカバンを手にした白衣の男と、異様な巨体。怪しいなどとは他者を指して言えないが、明らかに廃墟から出てくるには似合わぬ風体であった。

「な、なんだお前は?」
「───忍者です」
「ふざけているのか貴様!?」

 怒られてしまった。もしやこの男性、歴史学者だろうか等とくだらないことを考えていると、ずいと巨漢が前に出て来た。
 異様だった。全員に傷、それも手術の縫合痕らしきものが走り、手も足も丸太のように太いのに、胴は妙に痩せこけ、猫背になっている。目は白く濁り、炎天下に放置した魚を思わせるものだった。

「秘密を知られたからには生かしておかん!フランケンシュタイン式屍人兵の力、見せてもらおうではないか!」

 男が最後まで言い終わるか終わらないかの内に、巨漢が一直線に数多へと襲い掛かる。迷いは半瞬。背中の忍者刀を抜き放ち、直ちに迎撃に移る。
 巨体に似合わぬ素早い動きから放たれた拳撃をかわし、ぐるりと腕周りを周回するように切り付ける。腱を断ち、部位を動けなくするための一撃だったが、何故か巨漢の腕からは一滴の血も出ない。ホルマリンのような臭いがする液体が、代わりとばかりにぽつぽつと2、3雫垂れるだけだ。
 切られたはずの腕を振り回し、巨漢が迫る両腕を交差させるように手裏剣を乱れ撃ち。いずれも巨漢に突き刺さるが、肉の密度に阻まれてかどれも浅く突き刺さっただけだ。
 だが、それで構わない。手裏剣で仕留めようとは最初から思っていない。
 止まらない男の突進を、敢えて一切の力を抜いて受け入れる。まるで絹を押すかのように、ふわりと吹き飛ぶ数多の体。
 つかみ取ろうと巨漢が腕を伸ばしてくる。その腕には、皮膚1枚突き刺さった手裏剣。
 刀を振って無理やり空中で体勢を変え、手裏剣を蹴りつけて飛翔。高さを合わせ、刀を巨漢の右目へと突き込み、鞘で思い切り上から叩きつける。
 ぼごんと鈍い音がして、頭の右側が一瞬膨らみ、やがてへこむと同時に巨漢が崩れ落ちた。流石に脳を直接打ち付け、脳幹を引き裂いてやると死ぬらしい。そう言えば、生き物を殺すのは初めてかと他人事のように思う。

「ば、かな……た、たかが小娘に、屍兵が……モロー博士の獣人兵と並ぶ、我が軍の未来が……」

 素早く男に近づき、当て身を叩き込む。戦闘の興奮故か力を入れすぎ、廃墟に叩きつけてしまったが、まあ死んではしないだろう。本当は施設の中も調べたいが、深追いを避け、男のカバンだけを手にして闇に紛れる。
 何かが変わろうとしている予感がしていた。妄想からのごっこ遊びではない、今まで鍛え得て来た技術を存分に使うことができる、本物に手が届く予感がする。

「(お母様は、喜んでくれるでしょうか)」

 自らの運命が大きく転換したことを薄々感じながらも、数多の脳裏に浮かぶのは母のことばかり。
 褒めて、抱き締めて、撫でてほしい。それだけで如何な修羅道も恐ろしくない。
 皮肉なことに、徹底的に偽物であるはずの数多の心中は、奇妙に忍者めいたものであった。


【宝華院掃魔夜話】
武器:鉄扇

 腕は6本、足は8本、頭4つに口が無数。
 山に潜み神を気取り、人身供儀を求め続けていた彼の存在は、今、心の底から怯え逃げ続けていた。
 今までも自らを封じる、あるいは滅ぼすためにやって来る生意気な人間どもは、居た。どれも取るに足らない力しか持たず、散々に嬲って食らっては、残骸を村へと突き付け上下を教え込んできたのだ。
 そんな己が今───震えあがって、逃げている。いや、逃げていた、か。8本の足の内、右側についていた4本の足が、まるごと根元から切断されたのだから。

「おぎゃあああああああ!?」

 赤子のような悲鳴を上げ、異形は大地を転がり悶える。痛み以上に、恐怖が追い付いてくることへの焦りが心を満たしていく。

「哀れなる化生、甚振るつもりは無い。ひと想いに滅しましょう……宝華院の名の下に」

 音楽と聞き間違わんばかりの、麗しい声音。振り返った異形の瞳に映るのは、まだ若い白装束の娘の美しき容姿と、その周囲を旋回する無数の死の予感。
 鉄扇。骨芯に金属を仕込んだ扇が実に16、少女を守るように、あるいは獲物を探すように浮遊し、先に異形の足を切断した17本目の扇が少女の手元に帰っていく。

「ままま、待て、待ってくれ!もう止める!2度と村に生贄は求めぬ!何なら、今度こそ真に神として祝福をもたらしても……!」
「神は神、化生は化生───」

 つい、と少女が手にした鉄扇を向ける。一斉に浮遊していた16の死の閃きが襲い掛かり、異形を肉片……否、塵芥にまで切り裂き、砕き、滅していく。

「そして───人は人」

 ぱたりと手にした扇を開けば、そこには超常の名残は何処にもなく。
 神を騙った化生の骸も、宙を舞う鉄扇の群れも見当たらず、ただ清浄な空気を纏う少女だけが神秘が確かにあった証拠として佇んでいた。
 やがて、距離を置いて討滅を見守っていた人々が恐る恐ると顔を出し、少女の勝利を確信するとわっと駆け寄り、その偉業を湛えた。感謝をするもの、褒めそやすもの、あるいは失われた多くを悼み泣き出すもの。
 その1人1人に優しい笑顔を向け、手を握り返し、少女は最後にこう告げる。

「救いも報いも此処に在り。何かあれば、また遠慮なく宝華院を頼ってください。必ず駆けつけ、力となりましょう。報酬は結構、食うに困る身ではありません。失われてきた命と、哀れな化生の為に塚を建てるのに、その分を当ててください」

 あまりにも清らかな言葉に、遂には少女を拝みだす村人まで出る始末。
 照れたようにはにかんでいた少女は、やがて鉄扇をひらりと返すと───そこには、真っ白な鳥の羽は残るばかりで、幻のように救い主の姿は消えていたのだった。

 妖怪、あやかし、モノノ怪、怪異、天魔……化生。
 呼び名は時代や場所で変われども、その本質は決して変わることはなく。夜に紛れ、闇より出で、人を喰らい、理を乱す。
 それら人と相容れぬ魔の者を打ち払い、牙無き人の盾として生きる気高き一族。古くは平安中期の陰陽寮にまで出自を遡ると言われる退魔の家系・宝華院。
 特に今代の若き当主と見なされる宝華院涼香は、その容姿の可憐さや人々へと向ける優しさ、化生へと向ける苛烈さと滅ぼした後に見せる僅かな憐憫から、歴代最強と噂され、生き神であると彼女個人を崇拝する者までいる程であった。
 ほんの数年前、名高きが故に強力な化生によって襲撃を受け、大きな被害を出したとも噂されていた宝華院だったが、涼香の活躍はその完全なる復活、むしろ前にも増しての躍進を感じさせるものだと、闇払いの者たちの中でもっぱらの噂である。
 ただ、そのように涼香の勇名が高まれば高まるほど、皆が首を傾げることもある。
 これほどの実力を持つ娘が、昨今まで存在すら知られていなかったのは何故なのか。
 そして───宝華院襲撃の折、何処で何をしていたのかとも。

 ───宝華院本邸。
 本来は景観も麗しき日本屋敷だったそこは、今は例の襲撃の痕を生々しく残したまま、傷付いた威容を晒し続けている。
 化生襲撃で被害を出したのは慢心の結果、その教訓を忘れぬ為なのだと何処かで涼香が語ったという。宝華院とわざわざ事を構えようという輩はそうは居ないし、仮にその外観を詰ろうとも涼香の清らかな笑顔で毒気を抜かれて愛想笑いを浮かべて終わるのが常であった。

「お疲れ様です……ただいま戻りましたよ」

 1つの村を救い、屋敷へと戻って来た涼香。
 しかし、何故か門番たちに様子は何処か余所余所し気で、仮にも次期党首と目される娘と目を合わせないようにしている節すらあった。当の涼香はと言うと、どこ吹く風という態で気にもしていない様子であったが。
 破壊の痕が生々しく残る廊下を行き、焼け焦げた庭園を通り過ぎ、両断された襖の前を通り。
 やがて辿り着いたのは、比較的……というより、一切の傷が見当たらない、美しいままの障子の前。にこやかな笑顔を保ったまま、涼香は声掛けののち、障子を開け放つ。

「お母様、ただいま戻りました───」

 しなやかで、美しく、研ぎ澄まされた一撃だった。
 揺らめくような蒼き刃紋、弧を描く刀身の強度を落とさぬよう限界まで彫り込まれた祝詞。弱き所が微塵も見つからぬ、鍛えに鍛え上げられた神刀“炎通”───宝華院の護り刀とされる一振りであり、歴代当主の手で数多の魑魅魍魎を打ち払ってきた大業物である。
 それを以て斬撃が放たれたのは、次期党首であるはずの涼香の首に向けて。込められた力も意思も並大抵のものではなく、敢え無く少女の首は泣き別れとなるはずであった。
 そうは、ならなかったが。
 ガギリと鈍い音と共に、長い年月悪鬼羅刹から人を守り抜いてきた、神刀の刀身がへし折られて飛んだ。
 涼香がいつの間にか取り出した鉄扇による一撃。例え自らを狙った不届き者の凶行によるとしても、その顔には護り刀を破壊したことによる動揺はまるでなく、むしろ薄い笑みさえ浮かんでいた。

「お母様……少々手荒いお迎えですね」

 折れ砕けた神刀を呆然と構えるのは、涼香と似た面影を持つ妙齢の女。現宝華院当主・宝華院来夏、涼香の母親であるはずの女性であった。

「そんな……“炎通”すらあっさりと……!」
「形ある物はみな滅びます、お母様」
「黙りなさい!何が、母……化生の分際で!」

 宝華院涼香が、化生。あまりにも衝撃的な一言に対して、しかし涼香は反論しない。くすくすとおかしそうに……自らを慕う者たちには決して見せない、酷く性悪な笑みを浮かべて肩を揺らしている。

「化生の分際で、と来ましたか。確かに私は、化生としての性質の方が強くはありますね。けれど、ねえ」

 鉄扇の一振りで未練がましく握られていた柄を弾き飛ばし、両手をまとめて捉えると、そのまま涼香は母を壁へと押し付ける。赤子が母にするように、あるいは年頃の娘が思い人にするように、胸に顔を埋め、その少し汗ばんだ体臭を嗅ぎながら囁く。

「そうなったのは、誰のせいですか?」
「そ、れは」
「私のもう1人の母に、貴女は何をしたのでしたっけ」
「やめ、やめなさい……やめて……!」
「抑えきれない自らの業を、母にぶつけたのは貴女では無いですか……!」

 ───それが来夏個人の性によるものだったか、それとも宝華院の陰の顔であったのかは、この際あまり関係ない。
 化生も見た目や生態は様々であり、中には美しい容姿や人と変わらぬ体を持ち合わせる者も居る。
 そういった化生を見つけ、周囲に迷惑をかける悪鬼なりとでっち上げ……力づくで襲い、犯す。来夏は当主になる前からそれに耽り、当主となってからも積極的に続けた。
 特に好みなのは、自分よりも幼い容姿の同性の化生。抵抗すれば殺すと脅し、奉仕せねば一族諸共滅ぼすぞと奉仕させ……飽きれば、滅する。達成感はあれど、罪悪感など湧きようもない行いであった。
 中には勘違いをする者もおり、その純白の翼を持つ鳥の化生は、来夏からの寵愛を受けていると勘違いし、やたらと懐いていた。来夏からすれば、排せつと大差ないことだというのに。
 やがて子が出来たと嬉しげに告げられた時、問答する間もなく来夏は化生を切り刻み、崖の下へと放り捨てた。気高き宝華院の血が化生に混じるなど、あってはならぬことだった。
 このような失敗から身を糺した来夏は、以降は退魔の家の当主として心身を清め、如何にも聖人然として人理の守護者として過ごしてきたのだった。
 ───あの日、涼香が姿を現し、自らが来夏とあの鳥の化生の娘であると明かした後、宝華院の全てを敗北の汚泥に沈めるまでは。

「お前の……お前の目的は、何なのです……!復讐かと思っていたら、宝華院の人間として使命を遂行し、そうかと思えば夜な夜な私を襲い、穢す……何を成さんとしているのです!」
「解釈の違いですね。これは、復讐の真っ最中なのですけど」

 ───崖下で、瀕死の化生に産み落とされた涼香は、死にゆくまでの時間でもう1人の母のことを教わった。
 見目麗しく、気高く、誇りに満ち、人と化生に分け隔てなく、されど役目においては私情を挟まぬ人……それは本音であったのか、死にゆく自分を慰めるための方便であったのか。
 どちらにしても、力を磨き、山の化生どもを統べ、遠目に宝華院を伺えば、もう1人の母は見目の麗しさ以外はとてもその評に相応しい人ではないと知れた。
 ならば、そうしてしまえばいいだろう。
 母の理想の宝華院を、母が信じて愛した宝華院来夏を、自分自身の力で作り上げるのだ。

「私の代で、宝華院は更に名高き退魔の名門となるでしょう……誰もが湛え、尊敬し、勿論バケモノを脅して性処理などしない、ね」
「化生が、当主を継ぐなど……!」
「直に陥落させてあげますよ……いえ、私って、実際のところはかなりお母さんの“好み”なんじゃないかと思うんですよね」

 涼香の背より、ばさりと純白の片羽が現れる。穢れの一点もない、美しき翼。器用に動かし来夏の背を撫でると、彼女の喉がぐびりと鳴った。

「体は正直ですね……そのまま、心も正直になりましょう。心優しい人格者、人と化生の均衡にこそ心を砕く、新たな時代に相応しい価値観の持ち主にね」
「いや……許して……変えないで……壊さないで……!」

 翼がくるりと折れ飛んだ“炎通”の柄を拾い上げる。先まで母親が握って、手汗の滲んだそれをぺろりと舐める。
 そのまま手に持ち替え、鉄扇と合わせ左右に手にして母親の足の付け根へ添えると、笑顔を崩さぬままに涼香は告げた。

「今更遅いのですよ、お母様」

 ───正式に宝華院涼香が当主となり、宝華院の名声は更に高く鳴り渡った。
 退魔の腕は冴え渡り、しかして人にただ味方をするばかりでなく、時に住む場所を失った土地神の為に山や平野を買い取り保護し、塚や社を修復する。勿論、一線を超える化生には一切の容赦はしない。
 涼香の扇を用いた絶技は特に美しさにも強さにも秀で、如何なる神秘によるものか加齢すら感じさせず、長く宝華院を繁栄させたという。
 ただ、数多の家からの婚姻の申し込みだけは一切通らず、直接出向いた者も先代当主である母・来夏にけんもほろろに追い返され、母娘仲の良すぎることだけが宝華院の難点だと笑い話にされた。
 その後、養子を何処かから迎えたのか、涼香や来夏によく似た美しい娘たちが宝華院の御業を継ぎ、長く人の世を守りつないだということだ。


【ジャハンナハイウェイ666】
武器:タチャンカ(武装馬車)

 ぱしゃぱしゃと水を跳ね上げながら、4頭の馬に引かれた馬車が行く。
 かつては車が空を飛ぶ直前まで文明の進んだ世界も、獣が優秀な“動力”に戻って久しい。黄昏の世界に置いて、馬の数からしてもこの馬車はかなり贅沢な代物と言える。
 さぞ高貴な身分の者が乗っているのかと思いきや、乗員は馬を操る何処か疲れた容貌の熟女と、彼女と似通う面影を持つ少女、母娘と思わしき2人だけ。娘の方は、馬車の後部に取り付けられた何か金属製の部品を分解し、整備しているようであった。

「自動車って乗り物が、妖精大戦の前にはあったって前に言ってたじゃん」
「……ええ、誰もが1台ずつ持っているような時代もあったわ」
「速かったの、馬車よりも」
「そうね、速かった。とても」
「いいなあ、乗ってみたかった。母さんを隣に乗せてさ、全速力でかっ飛ばすの」
「アイリスの年だと、少しだけ許可証を取るのに足りないんだけどね」
「マジ?勿体ない話……それがあれば、死なない奴とかそこそこ居たろうに」

 母娘の他愛のない会話と、鋼の慣らす擦過音、それに馬たちの吐息に止まらぬ水音。それらが混ざり合って流れていくと、まるで穏やかな時間が流れているかのように錯覚する。
 実際には、その会話には常に死の想定がちらつき、何より雨も降っていないのに、何処までも濡れ続けている地面は異常なものであるのだが。
 ───やがて、母娘の時間を終わらすかのように、水音の数が増え始める。
 他の馬車がやって来たとか、野生の馬に遭遇したとか……そんな平和な可能性を考えるほど、母娘は平和を享受した経験の持ち合わせがなかった。

「ケルピーかな。だったら少しは楽」
「どうかしらね。この辺りは激戦区だったと聞いているけど」
「げぇー。そうなるとさ……」

 やがて、馬足が跳ね上げる水音との距離は近づいていき……馬とはかけ離れた異形の存在の影が視認された。
 脚部だけで3m近くある馬の下半身、その上に据えられた大男のものを思わせる上半身。そのどちらも皮膚と言うものがなく、筋肉と脂肪と血管の躍動が剥き出しになっている。顔に当たる部分には藁のロープが玉のようになるほど巻き付けられ、その重さ故か折れそうなほど激しく前後左右に揺れ続けていた。

「ナックラヴィ―……!最悪!」

 ナックラヴィ―はフーワと呼ばれる水妖の一種で、人類が妖精との戦争に敗れたこの世界に置いて、もっとも危険な支配種の1つである。おぞましい容姿に似合った残虐な性質や備わった攻撃性もそうだが、何より恐ろしいのは馬を殺す疫病のキャリアであるということだ。

「母さん、振り切れる!?」
「無理ね……足元の水は狩場の証。4匹がかりでも相手が有利」
「やるしか、ないか……!」

 整備を終えた部品を組み上げるのは、揺れる馬車の上であろうと僅かに十数秒。威容を現したのは、ベルト給弾式の機関砲。この馬車が単なる母娘の住居ではなく、タチャンカ……ロシア生まれの“兵器”としての本性を露わにした瞬間だった。
 轟音と共に、毎分500発の .303ブリティッシュ弾の嵐が水の暴君へと降り注ぐ。ボルトアクション式のライフル銃30挺に匹敵する集中砲火。馬車の上という不安定な足場と、元々ある程度のばら撒きを想定しているとは思えないほど、多くの弾丸がナックラヴィ―の醜い体に吸い込まれていく。
 しかし、一見すれば剥き出しの肉塊の体は、実際には火花を散らして弾丸を弾き、関節部に偶然当たった弾がほんの少しばかり歩みを遅らせる程度であった。

「妖精の癖に銃が効かないとか滅茶苦茶だよ!」
「足は狙ってる!?」
「もうやってる!」

 4匹の馬たちの息が上がり、4つの車輪が悲鳴を上げ、回転する銃身に熱が蓄積していく。披露しているのはまるで母娘の側だけだというように、異形の進撃は止まらない。

「……馬車の操作は、教えたわよね」
「犠牲になるとか言ったら、母さんでもひっぱたく。絶対に後追いしてやるからね」
「……」
「こんなクソッタレな世界だけど、私は生きる。母さんと生きるんだ。生まれた時には自動車も無かった。色んな文化も便利な道具も、生まれつきあいつらに奪われてた!これ以上は私から盗らせない!」

 弾丸にはまだ余裕があるが、吐いた気勢を威力に上乗せはできない。焦るアイリスの視界で、藁のロープの下からはみ出した大きな口が、毒色の煙を吐き出した。作物を枯らすと伝えられる毒煙だ。硫黄の臭いが云々などとも伝えられるので、硫化水素の類なのかも知れない。

「……ッ!」

 ナックラヴィ―の体ではなく、アイリスの脳裏で火花が散った。
 砲撃の個所を変更、ナックラヴィ―の顔へと弾丸を集約させる。

「口の中でも狙うつもり!?」
「発想は近い!」

 炸裂、擦過、傷を与えるには至らぬことを示す火花。
 爆裂。
 ナックラヴィ―のが顔面が弾け、気道と共に悲鳴を焼いた。
 ひたすらこちらを追い続けていた足は止まり、今までよりも更に上限運動を激しくした後、横倒しに水浸しの地面へ倒れる。
 死んだのかは分からない。だが、もう追い付かれることはないだろう。

「……引火性だったのね、あの吐息」
「毒ガスのほとんどは非引火性……だっけ。賭けだったけど」

 自動車を始め、いつかまた人類が科学文明を星の上に築けることを夢見て、母が教えてくれた様々な知識。それが今を繋いだ形になる。
 本来は戦闘音に引かれた他の妖精への警戒などを行うべきだと解っていたが、緊張が解けたのかアイリスは馬車底へとひっくり返る。
 何処か疲れた、しかし今は嬉しそうに見える母の顔が、逆さまに目に映った。

「……変わろうか、馬車の操作」
「他のあれこれを投げるつもり?」
「バレたか」

 えへへと笑って起き上がると、粛々とアイリスは生きるための次の準備を始める。
 人の栄華を知らない少女にとって、この馬車の上こそが、今は守るべき世界の全てだった。 


【お前を殺す詩がある】
武器:ギターの弦&ベースの弦

 女の嘔吐する姿が好きだ。
 性的な興奮は感じないけれど、素直な“音”を出す瞬間は見ていて、何より聞いていて楽しい。
 自身としては忌避して止まないこの容姿はどうやら同性にそこそこ有用に作用するらしく、イケそうだと思って声掛けして失敗したことは1度もない。バンドのファンに手を出すのは厄介だと気付いて、途中で撒いたことはあるけれど。
 てっきり性的な行為を期待して連れて来られた個室で、逃げられないように抱き締めて。ぐるぐると指をめり込ませて、内臓を刺激し、いたぶり、こね回す。
 先までの甘えた声音や黄色い響きが消え、ごっとかがっとか喉奥からひねり出される瞬間。それに続く制御の出来ない異音と吐息と嗚咽。どちらもとても味わい深い。ベースもこれくらい素直な音を出してくれるなら、私の日々ももう少し彩のあるものに……。

「ゆかり。貴女はまた、そうやって品のない遊びをする。貴女の人生に、そんな時間は不要だと何度言えば分かるんです?」

 ……この趣味部屋に勝手に入ってくるのは、バンドのメンバーだけだ。もっと言えば、こんな厭味ったらしい物言いをする女は私以外の3人だとこいつしか居ない。

「毎度毎度、小言のパターンが貧弱だな。歌詞考えるのに日常生活まで侵食されてんじゃねェのか?」
「私にとっては音楽が日常、それ以外が全て雑音です。貴女のくだらないお世話と始末も含めたね」

 げぇげぇとえづいていた女……そう言えば名前も聞いていない……が顔を上げる余裕を取り戻し、直ぐに先までとは違う困惑をそこに浮かべる。何度も経験してきた一幕、私の人生において最もおぞましい一瞬。
 この女と自分の顔が瓜二つであることを、客観的に確認させられる時間。
 首にするりと弦を巻き付けて締め上げる。力のかけ方によっては切断することもできるが、殺すのではなく記憶を消すのが目的なので、力のかけ方には気を遣う。
 ───殺した方が早いか。私の余暇以上のことを知ってしまったなら、その方が良いかも知れない。
 そんな思考が脳裏を過ぎるのと、手にした弦が断ち切られるのはほぼ同時。女の頭ががくりと支えを失って、床に倒れて小さく跳ねた。
 ほぼ同じ力をかけた弦をぶつけることで、他の弦を切断する。目の前の女が得意とする技術で、その事実そのものが私を苛立たせる。

「度を過ぎた遊びで、私の夢を容易く危険に晒す。だから貴女に自由を与えられない。自業自得って言葉知ってます?」
「自己流で学んだね。親が教えてくれなかったもんでさ……なあ、“母さん”?」

 私は、目の前の女……立川紫雨の、所謂クローンという奴だ。
 紫雨は、控えめに言って天才だった。何しろ出来ないことというのがまるでない。護身術を習えば師がその日のうちに「この娘は古今無双の大天才なり」と弟子入りを志願し、努力と言う者を何もしなくても天才たちの珠玉の傑作を鼻歌混じりに蹴散らすことが出来た。
 そんな女がただ1つだけ、個人では到達できないと考えたこと、音楽。自分の好む音を並んで作り上げる同胞、対等を欲したこの女は、世間に出せば常識がひっくり返るような倫理に悖る実験の果て、自分のクローンを作り出して“理想の音楽到達の道具”とした。
 それが私、立川ゆかりと名付けられた、この女の“楽器”。この女自身がギターを掻き鳴らす間、他の楽器を合わせる為だけに生み出された命。世間的には姉妹ということで通しているが、そう呼称するだけでこの女は不機嫌になる。生み出しておいて、身勝手なことだ。

「過剰な謙遜は時間の無駄と考えて日々を送って来ましたが、子育ての才能だけは自分にないのだなと日々痛感していますよ。完璧な素養を最初に与えられておきながら、それを活かす子供の側の質が悪すぎる。自分と言う存在が完璧なバランスで成り立っていることを確認できる点は良いかも知れませんは、それは別に鏡で事足りますからね」
「才能と美貌と異常な行動力を得るために人間性を邪神にでも捧げた女は、まったく言うことが違うね。音楽に優劣なんざナンセンスだが、競い合うならガールズバンド以外でも幾らでも場所はあっただろ。ヌルゲーだと思ったそこでずっと足踏みなんざ、人類の進化も案外侮れないんじゃないか?良かったな、数年後には凡人になれるかも知れないぞ」

 紫雨の手が翻り、無数の閃きが狭い部屋の中を駆け巡る。
 この女の手にかかれば、鉛筆1本でも兵器に変わりえる。こうしてギターの弦を使った絞糸術にこだわっているのは、音楽に関わっている間の意地のようなものに過ぎない。
 足元に転がっている女を締め上げた時、既に仕掛けていた“下ろす”。
 紫雨は多方向からの包囲・攪拌を好む傾向があるので、私は最初から天井で織り上げた“弦の結界”を編み上げておいたのだ。それを引きずり下ろし、紫雨の張った弦を丸ごと切断して解除していく。

「悪いことをしたなら謝る、親の言うことをきちんと聞き分ける、その程度のことも出来ないから、いつもお仕置きされると何故理解が及びませんかね」
「で、そのお仕置きとやらは?もしかして、今のあやとりがそうか?家族サービスで遊んでくれてるのかと思ったよ」

 紫雨は才能に関しては完璧なものを持っているし、知能も十二分に高い。だが人格的にはどうしようもない糞女で、誰も拮抗も訂正もしてくれないまま育ったガキのままだ。ふとした拍子に殺人すら犯し兼ねない私のような屑にすら、言葉だけではねじ伏せられずに力を見せつけようとする。

 ───だから、音楽で頂点が取れないんだよ。

 その一言を放ってやれば、きっとこの女はこれまでの人生で一番の重傷を負う。あるいは、心に消えない疵として残る可能性すらある。
 けれど、言わない。それだけは口にしない。
 私にだって、生まれて、そして生きて来た中で積み上げたものくらいある。それをぶつけることに関するこだわりもだ。
 この女を殺すのは、こんな下らない母娘喧嘩の場であってはいけないんだ。

「紫雨、ゆかり……また派手にやり合って……」
「血の気多いにゃあ、紫雨ちゃんは」
「……何故、私に言うんですか?」
「ゆかりちゃんが喧嘩売って、紫雨ちゃんがやり過ぎたのであってるでしょ?」

 ……経験の差は同じスペックがあるからこそ絶対で、小細工で勝てるはずもなく。
 私が部屋の中で貼り付けにされ、紫雨が狂ったように腹を殴り続けていた辺りで、他のバンドメンバーである宇佐美鼓と犬養紀伊がやって来た。そう、他のバンドメンバーだ。
 神の奇跡か、悪魔の悪戯か、クローン技術なんて大げさなものまで作って音楽への“武器”を作り上げた直後、紫雨は自分と並び立つのを許容できる相手に出会った。しかも、2人も。多分、私を生み出さなければベースも見つかっていたんじゃないかと勝手に邪推している。
 私のおぞましい折檻の現場も、まだ床でゲロに塗れて倒れてる女にも触れない辺り、こいつらもこいつらで壊れた人間ではあるけれど。

「ゆかり、痛かったろう……紫雨、下ろしてあげなよ」
「……どうせ貴女の、優秀な脳を制御できない脊髄では恒常性は期待できないと解り切っていますから、この場だけの謝罪で特別に許してあげます。感謝と崇敬の元に頭を垂れなさい」
「ゴメンナサーイ、モウシマセーン」
「……目的を果たしたら、必ず処分してやりますからね。直々に、徹底的に」

 それは、こっちの台詞だ。この女が満足するような最高の音楽を作り上げた時。何でも上手くこなしていたコイツが、絶頂に達したその瞬間。
 必ずその傍らに居座って、充足を穢してやる。この女の心を壊すのは、その時にと決めているのだから。
 それまでに、本当に捨てられては困るから……女は窓から下のゴミ捨て場に放り落し、犬養に肩を貸されながら、練習の場へと向かう。
 さっきの女の嘔吐はイマイチだったけど、紫雨とやり合った時の興奮は何かを生み出せそうな気がする。
 ───親殺しにつながる、階の旋律を。 

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