双眼鏡

男がベランダから双眼鏡で夜道を眺めている。
男は、娘の出産に伴い預かることになった茶トラ猫を玄関のドアを閉め忘れ、誤って逃してしまった。

娘婿が非常に溺愛していた、二回曲がった鉤形尻尾がチャームポイントの甘えん坊で、臆病な癲癇持ちのネコだった。
癲癇が起こった原因は、避妊手術の麻酔だと考えた娘婿は、該当の医師の出勤を電話で確認し、診察の予約を入れ、空のケージを持ち、ナタを鞄に入れて、動物病院に怒鳴りこもうとしたこともあった。娘の説得でそれは未遂に終わる。

猫を逃してしまったことを知られては、娘婿との関係が悪化し、孫に会えなくなると男は恐れた。だから、どうしても猫を見つけなければならない。仕事から帰ると、部屋着に着替えて、一息つく間も無く、ベランダに出る。
猫がいなくなったことは妻を通じて、娘には伝わっていたが、娘婿には言わないでおこうと家族で口裏を合わせた。猫探しに役立つようにと、娘がアウトドア用の折り畳み椅子を送ってきたので、男はそこに腰掛けて毎晩外を眺めた。
娘の気遣いは嬉しかったが、できれば、娘婿にこの話を伝えて、もう探さなくてもいいという風にして欲しかった。このまま猫が戻らなければ、いつかは自分の口からこのことを切り出さなければならないと思うと、気が重くなった。

最近は、夕飯もベランダで食べるようになった。部屋からはバラエティ番組を観る妻の笑い声が聞こえてくる。本当は、自分も妻の隣でその番組を見たかった。薄暗い通りを双眼鏡で見つめ、猫の影を探し続ける。男のリビングはベランダだった。

最近は、めっきり肌寒くなってきた。 
思い返せば、娘と娘婿が結婚に至った経緯は、男にとって納得のいかないものだった。
二人は飲み会で出会いそのまま一夜を共にした、妻と娘の開け広げの会話を横聞きして知ったのだが、二人は避妊をせずことに及び、娘婿は別れ際、アフターピルと称して、メントスを一粒渡したという。妊娠が発覚し、そのまま結婚が決まった後に、娘は笑い話のようにそのことを話していた。

保健所には連絡を入れている、発見者に薄謝を支払う意向を記した張り紙もした。ネットの迷い猫掲示板にも登録した、メールアドレスを記載したので、以来、投資詐欺のスパムメールが届くようになった。歩いて近所を探し回ったこともあったが、どこを探せばいいのか皆目検討もつかず、そのうち持病の腰痛が悪化しはじめて、翌日の仕事に差し障るようになったので、男は猫が自分から戻ってくるのを信じ、ベランダで双眼鏡を覗き込み、待っている。

ある晩、会社の飲み会の帰りだった。最寄り駅を降りて、自宅までの夜道を歩いていると、男は二つの黒い影が連れ立って歩いているのを見た、猫だった。そのうちの一匹が鉤型尻尾の茶トラ猫。男は小走りで駆け寄る。茶トラ猫は見覚えのないピンクの首輪をしていたが、まさにずっと探していた猫だった。後頭部のかたちが同じだと思った、少し違うかもしれないとも思った。妻に聞けばわかるはずだから、一度家に連れ帰らなければならない、男がどう猫を捕まえようかと躊躇していると、その猫は一瞬、男のほうに振り返る。それから、素知らぬ顔で、もう一匹の猫と一度鼻をくっつけて、連れ立って塀の隙間に潜り込んで姿を消した。

あの猫が、探していた猫だったのか、違う猫だったのか、確信は持てなかった。しかし、もう猫は戻ってはこないと、男には分かった、ほろ酔いで悟った。


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