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スラバヤの東南アジア最大の売春街は今

誰がどうやって計ったのかは知りませんが、東ジャワ州の州都スラバヤには、タイのパッポンやシンガポールのゲイランを上回る、東南アジア最大の売春街が存在しました。存在しました、という過去形なのは、2014年にスラバヤ市政府によって閉鎖され、いまはもう消滅したためです。

この売春街は、通称「ドリー」(Dolly)と呼ばれていました。売春店が並ぶ通りをドリーと呼んでいたのです。しかし、ドリーは売春街の一部に過ぎませんでした。この地域を東西に延びる幹線のジャラック通り(Jl. Jarak)の両脇には売春店が軒を連ねていたほか、実は、プタット・ジャヤ(Putat Jaya)地区の路地裏にも広がっていました。

2014年に閉鎖となった後、この元売春街では、売春に代わる新たな雇用を生み出すべく、スラバヤ市政府が中心となって、中小企業センターへの変貌を推進しています。

筆者は2013~2015年にスラバヤに滞在し、滞在中に売春街の閉鎖を目の当たりにしました。たまたま、筆者の家はそこからさほど遠くないところにあり、売春店に行ったことは全くなかったものの、タクシーで夜、たまたまジャラック通りを通ることが何度かありました。

そして2020年3月、中小企業支援を行っている友人たちとともに、ドリーとプタット・ジャヤを再訪しました。本稿では、そのときの様子を踏まえて、変貌する元売春街の様子を皆さんにお知らせしたいと思います。

売春街の始まり

スラバヤの売春街はこのドリー、ジャラック、プタット・ジャヤ以外にもありましたが、この地域が市内で最も売春店が集積しているところでした。それはドリーから始まったと言われています。

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ある建物の中で見かけた売春店の内部を描いた絵(2020年3月10日撮影)

ドリーというのは、ここで売春店を始めた女性の名前です。その起源については二つの説があります。

第1説では、まだ植民地時代の19世紀に、オランダ人女性のドリーがオランダ軍人向けに始めたとされています。最初は数人の売春婦を雇う小さな商売でしたが、サービスがよいと評判になり、オランダ軍人が何度も通うようになりました。その後、オランダ軍人以外にも客層が広がり、売春店も増えていったということです。

第2説では、もともと華人墓地だったとその地域へ1966年に外部者が入り込み、墓地を破壊し、土地を占有しました。この頃、スラバヤ市は華人墓地への新規の受け入れを停止するとともに、既存の墓を他所へ移動させる措置を採りました。侵入した外部者が占有した土地に、ドリーという名のオランダ海兵と結婚した女性が売春店を建て、その数を増やしていきました。1968~1969年頃には、売春店の数がずいぶんと増えていきました。

第2説に関しては、親中・容共のスカルノ時代から親米・反共のスハルト時代への転換期で、中国人や華人系が迫害される一方で、インドネシア共産党を壊滅させる国軍の影響力が強かった時代に呼応します。こうした時代背景が、華人墓地の破壊や売春街の発展に影響を与えたことが想像できます。

第1説と第2説を総合すると、売春行為自体はオランダ植民地時代から行われていましたが、それが発展する契機となったのは、1966年以降であったのではないかと考えられます。

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閉鎖される前のドリー。普通の建物に見えるが売春店である(2003年6月19日撮影)

なお、日本軍政期におけるこの地域での売春行為については、まだ資料の有無を確認できていません。また、別資料によると、ドリーがいわゆる売春地区(赤線地帯)に指定されて他地域から区別されたのは1960年代ということです。

ドリーが最も栄えたのは2004年頃で、約5,000人の売春婦が働いていました。同時に、1日に約50億ルピアの金がまわり、売春婦だけでなく、タクシー運転手、食堂、商店、清掃業、ベチャ(輪タク)曳き、駐車係など毎日1万5,000人余が働いていました。スラバヤ市の一大産業となり、税金等を通じた最重要の財政収入源となっていました。

長年にわたってスラバヤ市の財政を支えてきた売春街は、どうして2014年に閉鎖されてしまったのでしょうか。

売春街はなぜ閉鎖されたのか

その理由は、リスマ市長にあります。スラバヤ市の環境美化局長を歴任したリスマ市長は、スラバヤをきれいな町、環境先進都市へ変えた立役者です。政治的思惑に翻弄されず、真っすぐに政策を遂行する彼女は、インドネシアの次の時代を担うリーダーとも目されています。

不退転の決意で売春街の閉鎖を実施するリスマ市長は、殺害予告を含め、様々な脅迫を受けました。それでも閉鎖を遂行したのは、彼女によれば「子ども」のためだったのです。

子どもをアルコールやドラックが横行する環境から解放したいという理由に加えて、売春街で親が分からないまま産まれた子どもたちが容易に人身売買される状況を心配しているのでした。とくに、中学校や高校で、生徒が生徒を人身売買業者へ売るといった事態すら起こっていました。さらに、売春婦の最高齢が60歳で、その60歳の売春婦の客が小・中・高校生という衝撃の事実も明らかにされました。

リスマ市長は、荒廃した環境から子どもを守るために、売春街を閉鎖しなければならないと強く決意したのでした。同時に、職を失う人々に新たな雇用機会を提供するため、売春街を新たな雇用を生む中小企業が起業される場所へ変えることに全力を集中していきました。

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かつての売春店内の部屋の跡。左が寝台、右が沐浴場兼トイレ(2020年3月10日撮影)

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