細かすぎて伝わらないグラミー賞2022よもやま(その3の1)
【第64回グラミー賞ノミネーション クラシカル部門・1〜】
意外とおもしろいエンジニアとプロデューサー部門のノミネートから読む、アメリカン・クラシカル最前線
世界的なクラシック音楽アワードといえば、日本でも“ヨーロッパのグラミー賞”としておなじみ(笑)ドイツのエコー・クラシックや、英国のグラモフォン・アワードなどがあります。が、それに比べたら、たしかにグラミー賞のクラシック部門なんて本当にささやかなものです。受賞作も授賞式前にちゃっちゃっと素早く発表されるだけですし。主要部門のように「ビヨンセ、強ぇぇぇぇ」とか「ちょ、ちょ待てよアデルゥゥゥゥゥー」みたいなエンタメ性の高いデッドヒートも皆無。「え、グラミー賞ってクラシック部門もあるの?」と驚かれても(←実話)ぐうの音も出ない、相対的には地味な存在ではあります。
でも、グラミー賞に代表されるオール・アメリカン・ミュージック大会みたいなお祭り見物が嫌いじゃなくて、米国音楽(および米国を舞台に繰り広げられる音楽)に興味がある方ならば、クラシック部門もなかなか興味深いのではと思います。ふだんは積極的にクラシックを聴いているわけじゃないけど、いろんなジャンルの音楽が好きなので自然とクラシックも視界に入っている…的な雑食主義の音楽ファンならば、今、やや混沌としながらも少しずつ世代交代が進み、他ジャンルとのまじわり方にも変化が見えてきた米国のクラシック界を俯瞰するグラミー賞の動向はちょっと面白いはず。定点観測しておく価値はおおいにあると思います。
ポストロックとかテクノとかエレクトロニカ方面の音楽好きであれば、ずいぶん前からクラシックは隣接分野のような感じで、親近感があったとは思いますが。ここ10年あまりの間に、オペラを含むクラシカルというジャンルはさらにどんどん裾野を広げてきている印象があります。インディーロックとかフォークとか、ジャズとか、ワールド・ミュージック、あとはブルーグラスやカントリーを含むアメリカーナ系ムーヴメントとか、そういったものがあれこれ交わるハブ空港みたいな存在になることも多くなってきました。そのあたりが、個人的にはものすごく面白い。
たとえばオペラに関していえば、ロックダウン前の2019年末のメトロポリタン・オペラではシーズンの目玉としてガーシュウィンの『ポーギーとベス』の新演出が大絶賛され、今年のシーズン・オープニングでは同歌劇場にとって初の黒人作曲家作品となるテレンス・ブランチャードの『Fire Shut Up in My Bones』が上演されました。まさかブランチャードの音楽が、あのメトロポリタン歌劇場で聞くことができるとは。そして来シーズン以降のメトロポリタン・オペラではマルコムXの伝記的オペラが上演されることが決まったり…と、もはや黒人音楽は完全にアメリカン・オペラ新時代の“鍵”になっています。
ちょっと前まで、私も、グラミーのクラシック部門はどこか“持ち回り”っぽいというか、米国における業界内の“推し”を公平に良心的に紹介してゆくような、いわば都心にある地方物産のアンテナショップ的な無難な存在として見ていました。まぁ、今も半分くらいはそういう面もあるのかもしれませんが、ここ数年、あきらかにジャンルを超越して“米国音楽の未来”のヒントになるようなノミネートや受賞が増えてきている気がします。
今回、最多11部門でノミネートされたジョン・バティステがクラシック部門でも作曲家としてノミネートされたというのも、そういった最近のアメリカン・クラシカルの傾向を象徴するトピックだったと思います。
と、前フリが長くなりましたが。
ノミネートされたクラシカル各部門の中から、私が注目している作品やアーティストをチェックしてゆきたいと思います。今年は自分の愛聴作品や好きなアーティストのノミネートがものすごく多かったので、ちょっとテンションあがってます。別に賞レースに興味はなくても、愛聴していた作品がノミネートされたり、受賞すると、なんとなく「やるな、俺」的な満足感ありますよね。脳内賭博、つーか。
ここからは、クラシック関連ノミネーション・リストを紹介しつつ、個人的愛聴盤や気になるアーティスト、気になったことなどがある候補者やアルバムについては解説を加えてゆこうと思います。ただ、ホントに個人的なメモなので、何も追記していないものは未聴か、興味がないか、私にはよくわからないものです。すみません。後日、新たに聴いたものなどがあれば追記します。
ちなみに、ここまで便宜上“クラシック”と書きましたが、本当は、ジャンルとしての「クラシック」っていうのは日本語英語っぽくてあまり好きじゃないんです。伝統的なルールにのっとった最新の音楽も、中世の音楽も、全部ひっくるめての音楽ジャンルだから、“クラシカル”のほうがしっくりきます。なので、ここからは基本「クラシカル部門」の音楽という意味で“クラシカル”という言葉を多用しますが、基本的にはクラシックでもクラシカルでも本質は変わりません(←私のなかで)。
《その1》Best Engineered Album, Classical/最優秀アルバム技術賞、クラシカル
もっとも優れた録音のアルバムを手がけたエンジニア/マスタリング・エンジニアに贈られる賞。
●Jonathan Lackey, Bill Maylone & Dan Nichols(エンジニア)、Bill Maylone(マスタリング・エンジニア)
アルバム『Archetypes』(セルジオ・アサド、クラリス・アサド、サード・コースト・パーカッション) (Sérgio Assad, Clarice Assad & Third Coast Percussion)
アルバム『Archetypes』は現代音楽の打楽器アンサンブル、サード・コースト・パーカッションが、ブラジルの名ギタリスト&作曲家であるセルジオ・アサドと、彼の娘で作曲家でマルチ・インストゥルメンタリスト&ヴォーカリストのクラリス・アサドとコラボレーションしたアルバム。ブラジル音楽やラテン・ジャズの要素や、多彩な楽曲によってほのめかされる人々の多様性を、巧みで周到な音像づくりによってひとつの「宇宙」として表現した作品。作品のコンセプトからして、エンジニア、マスタリング・エンジニアがノミネートされるのは「そりゃそうだ!」と膝を打ちました。
おそらく日本でも、この作品のリスナーはいわゆるクラシックひとすじのファンよりも、“じゃないほう”の音楽ファンが断然多いはず。でも、そういう作品がグラミーのクラシカル部門で高く評価されたりするので目が離せないです。グラミー賞はいろいろ悪く言われたりもするけど、なんだかんだこういう作品のエンジニアがちゃんと評価されるって、やっぱアメリカの音楽業界はオトナだなと思ってしまう。
●Richard King(エンジニア)
アルバム『Beethoven: Cello Sonatas - Hope Amid Tears』(ヨーヨー・マ&エマニュエル・アックス)
受賞作品は、ヨーヨー・マとエマニュエル・アックスの黄金コンビによる、二度目のベートーヴェンのチェロ・ソナタの全曲録音。若さと才気溢れる80年代の録音も、今なお聴くたびトリハダのマスターピースですが。年齢を重ねた盟友ふたりのやわらかさ、おおらかさ、強さたるや。ましてや、コロナ禍での我々を必殺のベートーヴェンで力づけてくれる優しさたるや。と、大好きなアルバムです。昨年8月、ヨーヨー・マの本拠地ボストン・タングルウッドにあるセイジ・オザワ・ホールでの録音。行ったことはありませんが(笑)、至高のアコースティック・ホールとして名高い会場。場の“響き”もまた演奏の一部分である、つまりホールと同じくらい録音も上質でなければ…と、シロート耳にも痛感させられるアルバムです。
●Mark Donahue(エンジニア、マスタリング・エンジニア)
アルバム『Beethoven: Symphony No. 9』(マンフレッド・ホーネック指揮ピッツバーグ交響楽団、メンデルスゾーン・クワイア・オブ・ピッツバーグ)
●Leslie Ann Jones(エンジニア)
アルバム『Chanticleer Sings Christmas』(シャンティクリア)
シャンティクリアは78年に結成された、サンフランシスコを拠点に活躍する男声アンサンブル(現在12人編成)。もともとルネサッンス音楽の探求を目的に結成されたグループで、現在はポップスやジャズなど幅広いレパートリーを歌う人気の大所帯アカペラ・グループとしてもおなじみです。ただし、この作品は本業(?)である中世の讃美歌やキャロルを集めたクリスマス・アルバム。ジャケはポップですが、重厚で格調高い。そして、どこで録音したのかはわかりませんが、ハーモニーのエコーによって生まれる中世の石造り教会感たっぷりの音響がすごい(笑)。まるで目の前で歌われているような、美しい緊張感があります。
●Alexander Lipay & Dmitriy Lipay(エンジニア、マスタリング・エンジニア)
アルバム『Mahler: Symphony No. 8, 'Symphony Of A Thousand'』(グスターボ・ドゥダメル指揮LAフィル、LAチルドレンズ・コーラス[芸術監督:フェルナンド・マルヴァル-ルイス]、ナショナル・チルドレンズ・コーラス[芸術監督:ルーク・マクエンダルファー]、パシフィック・コラール[芸術監督:ロバート・イスタッド]、LAマスター・コーラル[芸術監督:グラント・ガーション]
今回の最優秀オーケストラル・アルバムにもノミネートされている、2019年のLAフィル創立100年記念公演におけるマーラーの交響曲8番。LAフィルの芸術監督グスターボ・ドゥダメル指揮のもと、上記のようにものすごい数の合唱団が参加。もちろん独唱歌手もオールスター・メンバー、日本が世界に誇るメゾソプラノ歌手の藤村実穂子さんもアルトで参加しています。
“千人の交響曲”の名で知られる交響曲8番を、全米でもっともリッチなオーケストラといわれるLAフィル(なんたってディズニー傘下です)ならではのスケールでやってのけた大スペクタクルなパフォーマンス。母国ベネズエラでは同曲を1000人以上のメンバーを(出演者だけでアリーナ満杯w)全員一丸にしてみせた稀代のカリスマ、ドゥダメルならではのマジックが炸裂する名演です。
独グラモフォン・レーベルからのリリースですが、現在のところストリーミング配信とダウンロード販売のみでフィジカルはなし。ですが、なんと、Apple Music版では今をときめくドルビー・アトモス(Dolby Atmos)で配信中。ドルビー・アトモスの音世界を体験するには、映画でいえば『スター・ウォーズ』の大迫力に匹敵するドゥダメル&LAフィル版マーラー8番は確かにぴったり。
この作品も、録音部門でのノミネートは当然と思えるエンジニアが起用されています。エンジニア/マスタリング・エンジニアとしてノミネートされているアレクサンダー・リペイ&ドミトリー・リペイは、今、もっとも注目しておきたいクラシック系レコーディング・エンジニア。親子です。ドミトリーさんが父、アレクサンダーさんが息子。
せっかくの機会なので(笑)ちょっと詳しく書きます。
ドミトリー父さんのほうは長年クラシカル系プロデューサーとして活躍しており、グラミーにもプロデューサー/エンジニアとして計8回もノミネートされています。特筆すべきは、いち早く自主レーベルの運営に力を入れていたシアトル響のサウンド・クリエイティヴ部門のディレクターとして活躍してきたこと。現代音楽の名演が多いことでも有名なシアトル響にとって、設計図どおりに家を建てる大工さんのように音を構築するドミトリー父さんは、音楽監督や主席指揮者と並ぶ重要な役割を果たしてきました。
たとえばジョン・ルーサー・アダムズがピューリッツァー賞とグラミー賞(作曲賞)をダブル受賞した「Become Ocean」(2013)の世界初演は、シアトル響によるものでした。その録音を手がけたのは、もちろんドミトリー父さん。
ちなみに、この作品はDVDがぜったいおすすめ。トビます。
「Become Ocean」は、美しい海の姿を交響曲として描くことにより地球温暖化への警鐘を訴えた作品です。地球の命はすべて海から始まっていて、だから今、温暖化によって南極の氷が溶けてゆくことは、我々人類も再び“海になる”ということかもしれない…という強烈なメッセージを含んだこの作品がどれだけすごいかっていうと、このCDを聴いたテイラー・スウィフトは感動のあまりシアトル響に感謝の5万ドルを寄付したくらい。曲もすごいが、テイラーもすごい(笑)。
話が横道にそれすぎましたが、「Become Ocean」でも、音像が命の作品が録音物として成功するために、作曲家が全幅の信頼を寄せられるエンジニアの存在が何よりも重要だったわけです。
息子のアレクサンダーは、もともとはエンジニアではなく、つい最近までオーケストラのフルート奏者として活動していた変わり種。エンジニアとして父と仕事するようになって間もないのですが、すでに親子で3度のグラミーを受賞しています。親子コンビではドゥダメル&LAフィルとの仕事が多いようで、この作品の前には、クリス・シーリーも「今、ものすごく気になる作曲家」としてカヴァーしていたアンドリュー・ノーマンの「SUSTAIN」をドゥダメル&LAフィルが世界初演した作品でグラミーを受賞しています。
他にも、これまでリペイ親子の手がけたグラミー受賞作品として記憶しておきたい作品があります。ルドヴィク・モロー指揮シアトル響によるデュティユーのアルバムです。第59回(2016)、クラシカル・エンジニア部門ではなく《ベスト・サラウンド・アルバム》部門を受賞したという点も興味深いです。この時、ローカル紙の電子版で「シアトル響の近年の躍進はエンジニアのドミトリー・リペイなしでは考えられない」という絶賛記事を読み、ひとつのオーケストラにこれほど多大な影響を与えるクリエイティヴなエンジニアがいるんだなぁと感動したことをよく覚えています。もしかしたら、アルチザン的な父に息子の若い感覚が加わったことで、無敵の親子鷹エンジニア・ユニットが誕生したのかもしれません。
このコロナ禍のあいだ、フィジカル至上主義のクラシック界でもストリーミング&ダウンロード販売の需要が急激に増えました。そんな中で、今後、クラシカルの世界でも、こういった新しい時代に対応するエンジニアがますます求められてゆくのではと思います。
《その2》Producer Of The Year, Classical/プロデューサー・オブ・ザ・イヤー、クラシカル
非クラシカル部門におけるプロデューサー・オブ・ザ・イヤーならば、その年もっとも輝いたヒット・メイカーとしての評価が重視されるわけで。当然、音楽シーン全体の動向を反映するわけですが。クラシカル部門になると、まぁ、シーンの頂上争いもそれほど激しくなさそうですし(笑)、めまぐるしい流行もないですし、狭い世界ですし、主要メジャー・レーベルのエグゼクティヴ的な地位にある現役・O Bばかりが受賞しているような印象は否めません。もちろん業界のシステムからしてそうなるしか仕方ないので、特に異論はないのですが。
もちろんそういう大メジャー系プロデューサーだけではないことは承知していますが。ここではあえて、グラモフォンやソニー、デッカなどメジャー・レーベルで活躍してきたエグゼクティヴ系のプロデューサーたちに注目したいと思います。について書きたいと思います。なぜなら、そういった人々の動向は今、米国のアメリカーナや、インディー・フォーク、ポスト・ロックといった方面にも非常に重要な影響を与えつつあるからです。
上質で純粋で文句のつけようがない極上クラシック・アルバムを粛々と世に送り出してきたベテランのトップ・プロデューサーたちは、音楽の本質も知り尽くしていて、クラシック音楽の長い歴史と伝統の重みは決して軽んじてはいけないことを誰よりも知っている人々です。が、同時に、彼らはメジャー・レーベルの将来を預かるエンタメ業界人でもあるわけで、商業としてのクラシック音楽の危機的状況も痛感していないはずがありません。
だからこそ、歴史と伝統という“領地”を守りながら、未来へとつながる音楽やアーティストへのチャンスをどうやって作るかを真剣に考えているのも、そういうメジャーな大プロデューサーたちではないのかな。と、最近よく考えます。
クラシカルと非クラシカルは決して重なりあうことのない世界であることをよくわかっていて、その上で、安易にライト・クラシックとかクロスオーヴァーという既成の道に進むことなく、クラシックと「じゃないほう」に上手に橋をかける…。そういう存在としてのクラシカル系プロデューサーたちの動向に、今、ものすごく興味があります。
今年もノミネートされている常連中の常連で超大物プロデューサーのスティーヴン・エプスタインやデイヴィッド・フロストなどは、クラシック・ファンでなくても名前だけでも覚えておくと、思いがけないところで彼の名を見つけ、意外な音楽とクラシックのつながりを発見することがあるかもしれません。
と、えらそうなことを書いているのに、正直、クラシックになるとほとんど知らないプロデューサーだらけなのですが。いちおグラミーを読み解く記事と大見得を切ったからには、せめて何かのお役に立つように、お名前の後に勝率(受賞数/ノミネート数)だけ書き足しておきます。
ま、クラシックといえどもグラミー賞という舞台ではショービズなので^_^ みなさまの脳内ひとり賭博にご活用ください。
●Blanton Alspaugh (11/25)
『Appear And Inspire』 (James Franklin & The East Carolina University Chamber Singers)
『Howells(ハーバート・ハウエルズ): Requiem』 (Brian Schmidt & Baylor University A Cappella Choir)
『Hymns Of Kassianí 』(Alexander Lingas & Cappella Romana)
『Kyr: In Praise Of Music (Joshua Copeland & Antioch Chamber Ensemble)
『More Honourable Than The Cherubim』 (Vladimir Gorbik & PaTRAM Institute Male Choir)
『O'Regan: The Phoenix』 (Patrick Summers, Thomas Hampson, Chad Shelton, Rihab Chaieb, Lauren Snouffer, Houston Grand Opera & Houston Grand Opera Orchestra)
『Sheehan: Liturgy Of Saint John Chrysostom』 (Benedict Sheehan & The Saint Tikhon Choir)
あちこちの有名オーケストラ、クワイアのディレクターを務めたり、歌モノの育成に力を注いできた指導者/プロデューサーとのことです。このノミネート数を見れば歴然ですが。て、ぜんぜんわかってなくてすみません。正直、お名前の読み方すらよくわからない…。
●Steven Epstein(16/35)
『Bach And Brahms Re-Imagined』 (Jens Lindemann, James Ehnes & Jon Kimura Parker)
『Bartók: Quartet No. 3; Beethoven: Op. 59, No. 2; Dvořák: American Quartet』 (Juilliard String Quartet)
『Beethoven: Cello Sonatas - Hope Amid Tears』 (Yo-Yo Ma & Emanuel Ax)
『Mozart: Piano Concertos Nos. 9 & 17, Arr. For Piano, String Quartet And Double Bass』 (Alon Goldstein, Alexander Bickard & Fine Arts Quartet)
『Songs Of Comfort And Hope』 (Yo-Yo Ma & Kathryn Stott)
スティーヴン・エプスタインといえば、現在の米国クラシック界を代表する大物プロデューサーのひとり。なんてったって、これまでプロデューサー・オブ・ザ・イヤーだけでも7回も受賞しています。70年代からコロムビアのクラシック部門で頭角をあらわし、06年にフリーランスになるまでの30数年間ずーっとコロムビア〜ソニー・クラシカル系列ひとすじで活躍してきた大ベテランです。
プラシド・ドミンゴから五嶋みどりまで、手がけた大スターは数知れず。クラシック音楽にとどまらずミュージカルやジャズの名盤のプロデュース作品も少なくない。ウィントン・マルサリスがピューリッツァー賞を受賞した『Blood On The Fields』(1997)もエプスタインのプロデュースでした。マルサリスとは若い頃からたくさん仕事をしていて、第62回(2019年)の最優秀クラシカル・インストゥルメンタル・ソロを受賞したマルサリス作曲のヴァイオリン・コンチェルトでもプロデューサーを務めていました。ソニーの大黒柱アーティストで、もともとクラシック志向の強かったビリー・ジョエルがかつてピアノ・アルバムを出した背景にも、エプスタインの存在がありました。
しかし、なんといっても、エプスタインといえばヨーヨー・マ!
参考までにマ先生の勝率を書いておきますと、27ノミネート18受賞。王様。
今年もアックスとのベートーヴェン・ソナタ・アルバム、ピアニストのキャサリン・ストゥッドとのアルバム『Song of Comfort』、最新作でのアンジェリーナ・キジョーとのコラボレーションがノミネートされています。
エプスタインは06年からフリーランスのプロデューサーになるのですが、今もソニー時代からずっと変わらず、近年のヨーヨー・マ作品のほとんどに携わっています。超正統派クラシック路線だけでなく、映画音楽、ワールド・ミュージック、ジャズ…など、様々なジャンルと縦横無尽なコラボを続けているヨーヨー・マの活動をがっつりと支えてきました。
そして実は、21世紀のアメリカーナ/フォーク・ムーヴメントにとっても、エプスタインはとても重要なプロデューサーなのです。
特筆すべきは、90年代から始まったエドガー・メイヤーを中心としたアパラチアン・フォーク/トラッドのリ・イマジン・プロジェクト。合衆国建国の物語とも深く結びついているアパラチア山脈の伝統音楽の歴史を、米国ならではの“新しい室内楽”としてとらえ、ジャンルを超越したヴィルトゥオーゾたちのアンサンブルによって再構築する…という画期的な試みの陰には、レーベルのプロデューサーだったエプスタインが仕掛け人のひとりとして大活躍していたのでした。
プロジェクトはエドガー・メイヤー、ヨーヨー・マ、マーク・オコナーの『アパラチアン・ワルツ』(1997年)に始まり、このトリオにジェイムズ・テイラーやアリソン・クラウスが加わった『アパラチアン・ジャーニー』は第43回(2000年)の最優秀クラシカル・クロスオーヴァー・アルバムを受賞。そして、最終的にはヨーヨー・マ、エドガー・メイヤー、スチュアート・ダンカン、クリス・シーリー+イーファ・オドノヴァンによるスーパー・アメリカーナ・ユニット、ザ・ゴート・ロデオ・セッションズへとつながってゆきます。彼らの歴史的傑作『The Goat Rodeo Sessions』は、2002年の第55回グラミー賞で最優秀フォーク・アルバムを受賞。言うまでもなく、このアルバムにも、昨年リリースされた待望の第2弾『Not Our First Goat Rodeo』にも、エプスタインがプロデューサーとして名を連ねています。
このゴート・ロデオ・セッションに最年少メンバーとして抜擢されたのが元ニッケル・クリーク、のちにパンチ・ブラザーズを結成する不世出の天才、クリス・シーリーでした。このゴート・ロデオ・セッションズでの刺激的な経験は、パンチ・ブラザーズの結成にも大きな影響を与えました。2008年にリリースされたパンチ・ブラザーズのデビュー・アルバム『Punch』で、いわば異業界のプロデューサーであるエプスタインをプロデューサーとして迎えたのにはそういう経緯があります。
ちなみに『Punch』はワーナー系ノンサッチ・レーベルからのリリースですが、エプスタインは2006年からフリーランスとして活動しています。そうか、フリーになった直後の仕事だったんだ。と、さっきwikiって気づきました。定年後、これからはセールスなんか気にしないで自由に好きな仕事をするぜ的な心意気だったのかもしれません。実際、売れなかったけど、アメリカーナの歴史を大きく変える大傑作となりました。
説明がたいへん長くなりましたが、やはり私としては『Punch』のプロデュースがエプスタインなのには理由がある、単にシーリーがバッハやマーラーにドはまりしていたからだはない…ということを書いておきたくて、つい(笑)。
プログレッシヴ・ブルーグラスのグループのデビュー作を、クラシックの大御所プロデューサーが手がける…という、ちょっと不思議な図式は、ある意味、ここ近年急速に接近しつつあるクラシック界とアメリカーナ全般の関係の“はじまり”を象徴するものだったといえるのではないでしょうか。
ジュリアード・ストリングス・クァルテットの最新作。クールヘッド&ウォームハートの極みのようなアンサンブル。大好き。
●David Frost(19/25)
『Chamber Works By Dmitri Klebanov』 (ARC Ensemble)
『Glass: Akhnaten 』(Karen Kamensek, J’Nai Bridges, Dísella Lárusdóttir, Zachary James, Anthony Roth Costanzo, Metropolitan Opera Chorus & Orchestra)
『Mon Ami, Mon Amour』 (Matt Haimovitz & Mari Kodama児玉麻里)
『One Movement Symphonies - Barber, Sibelius, Scriabin』 (Michael Stern & Kansas City Symphony)
『Poulenc: Dialogues Des Carmélites』 (Yannick Nézet-Séguin, Isabel Leonard, Erin Morley, Adrianne Pieczonka, Karita Mattila, Karen Cargill, Metropolitan Opera Chorus & Orchestra)
『Primavera I - The Wind』 (Matt Haimovitz)
『Roots』 (Randall Goosby & Zhu Wang)
デイヴィッド・フロストといえば今、米国の現役世代でいちばん有名な、スティーヴン・エプスタインの(ほぼ)次世代の大御所プロデューサーですね。ものすごい余談になりますが、ボブ・ディランは自身のプロデューサー・ネームとして“ジャック・フロスト(雪だるま)”を名乗っているので、クラシック・アルバムのクレジットでデイヴィッド・フロストの名前を見るたび、わかっちゃいるのに思わず「え?」と二度見してみたくなる悪いクセが抜けません。
村上春樹さんもそうだといいのにな、と妄想してみたりして。
さて。
フロストの最初のグラミー受賞はクラシック・ジャンルではなく、“ベスト・スポークン・ワード・アルバム・フォー・チルドレン”部門だったそうです。それが1999年。つまり、21世紀になってからのクラシカル・シーンを担ってきたプロデューサーです。もともとはBMGクラシックのスタッフ・プロデューサーを長く務め、そこでプレヴィンやサー・コリン・デイヴィスらといった大御所たちの制作に携わり、その後はBMG、ソニー、デッカ、独グラモフォン、EMIといった大メジャー・レーベルの大作、話題作を世に送り出し続けてきた信頼度満点のベテラン。BMG時代から大物指揮者、ベテラン・アーティストからの信望が厚かっただけのことはあり、メジャー・レーベルに限らずメトロポリタン・オペラやニューヨーク・フィルなどの全米オーケストラの作品に数多く携わってきました。
とりわけメトロポリタン・オペラとの関係は良好の模様で、昨年は『ポーギーとベス』が最優秀オペラ・レコーディングを受賞、今年も同部門にフィリップ・グラスとフランシス・プーランクのオペラがノミネートされていて、いずれもフロストがプロデューサーとしてクレジットされています。
そんなにたくさんクラシックのアルバムを聴いているわけではない私ですが、フロストの今年のプロデュース作品リストを見たら、フロストのプロデュースとは知らずに今年よく聴いたアルバムがたくさん入っていて驚きました。
マイケル・スターン(アイザック・スターンのご子息)が音楽監督を務めるカンサス・シティ響によるバーバー、シベリウス&スクリャービンの単一楽章の交響曲集『One Movement Symphonies』は、生々しい迫力がそのまま出ているインディーズ盤みたいなカッコよさのある作品。リファレンス・レコーディングスの高音質録音の特性が、音ひとつひとつの再現性だけでなくオーケストラ全体の生命力のようなものをとらえている。いい仕事してますね。これはプロデューサーというよりも、録音の問題なのかもしれないけど。
いつもジャケ買い&コンセプトに惹かれ買いしてしまうシャンドス・レーベルから出ている“Music in Exile(亡命者たちの音楽)”の第5弾としてリリースされた、ウクライナの作曲家・クレバノフの室内楽集。これもまた、いい仕事。寡聞にして、私はクレバノフという作曲家をこのアルバムで初めて聴きました。世の中には、こうやって誰かが発掘して、録音して、紹介して、日本にも輸入されて…という偶然がなければ耳にする機会がないままの凄い作曲家がたくさんいるんだなと、あらためてしみじみ思いました。
あと、イスラエル出身のチェロ奏者マット・ハイモヴィッツの作品も2枚リストアップされています。どちらかといえばクラシックより非クラシック音楽のほうが馴染深いという(私のような)音楽好きには、ガブリエラ・スミスや、デイヴィッド・T.リトル、ヴィジェイ・アイヤーの作品をとりあげた意欲作『Primavera I - The Wind』は超おすすめです(あ、もちろんピアニスト児玉麻里さんとのフランス作曲家集も超素敵です)。
https://open.spotify.com/album/2wlx0p4aNT8AeLy92KbrzY?si=xNyTi6MeTuq6_BFgwz3g7Q
いずれのジャンルでも、メジャーに活躍する優れたプロデューサーというのは、純粋に音楽を評価するバランス感覚というか、“目利き”(=耳利き)の才が突出しているのではとあらためてしみじみ思います。
● Elaine Martone (4/9)
『Archetypes』 (Sérgio Assad, Clarice Assad & Third Coast Percussion)
『Beneath The Sky』 (Zoe Allen & Levi Hernandez)
『Davis: Family Secrets - Kith & Kin』 (Timothy Myers, Andrea Edith Moore & Jane Holding)
『Quest』 (Elisabeth Remy Johnson)
『Schubert: Symphony In C Major, 'The Great'; Krenek: Static & Ecstatic』 (Franz Welser-Möst & The Cleveland Orchestra)
エレイン・マルトーンは、ベスト・エンジニア賞の項でも紹介したアルバム『Archetypes』のプロデューサーです。
今回受賞すれば06年以来2度目のプロデューサー・オブ・ザ・イヤーとなるマルトーンはジャズ/クラシックの名門、テラーク・レコードのエグゼクティヴ・プロデューサーだった人。もともとオーボエ奏者でオーケストラ団員をめざしていただけあってクラシック、特にオーケストラものを得意とするプロデューサーとのことですが、テラーク時代のレイ・ブラウンをはじめジャズ作品も数多く手がけています。今回、ウェルザー=メスト指揮クリーブランド管のシューベルトもリストアップされていますが、コロナ禍で大健闘したクリーブランド管オンライン・シーズンのプロデューサーも手がけていたそう。柔軟な発想で新しいメディアを利用する、今後のクラシカル・シーンでのキーパーソンになるひとりかもしれません。
カリフォルニア州オハイで開催される現代音楽フェス、オハイ音楽祭にも携わってきたそうで、現代作品を得意とするソプラノ歌手ゾエ・アレンによるアイヴス、コープランド、プライス、ニコ・ミューリーらの歌曲集『Beneath the Sky』もそういう活動の流れで実現したアルバムなのかもしれません。
https://open.spotify.com/album/5FdebUvOQkJPe9nG6TTDv6?si=Pe7pieCbQyqO5D3fL4nvPw
あと、このノミネーション・リストを見て初めて知って、プロデューサー云々よりも作品そのものがめちゃくちゃ気になっているのは、2018年にノースカロライナ・オペラで初演されたという若手作曲家ダニエル・トーマス・デイヴィスの新作オペラ『Davis: Family Secrets - Kith & Kin』の録音なのです。
https://open.spotify.com/album/4PQ8mOX4OXgkeyjLVAsRrp?si=OqEtKV18TDmLiHCu_H0SaQ
これ、ジャケットからも、ノースカロライナで初演という状況からも、そして何よりバンジョーが大活躍なことからも、ジャズもトラッドもフォークも出てくることからもわかるように、完全に、今、もっとも熱い(が、まだ火はついていない)“アメリカーナ・オペラ”なんですよ。かっこいい。ファミリー・シークレットというタイトルのとおり、南部の小さな村の家族の秘密がそれぞれの歌によってつまびらかにされてゆくという構成らしいです。どういう物語なのか、めっちゃ気になります。が、さすがに歌詞カードがないと言葉も難しく、何のことやらよくわからないのです(涙)。アルバム評の記事を読むと「私たちは、最悪の状態にある自分たちを救うことができるのだろうか」というテーマが全編に流れているのも、コロナ禍のプロジェクトならではの時代性を感じるとか。若き作曲家の冒険的なオペラを、ベテランの凄腕マルトーンががっちりバックアップしたことで実現した作品…とも紹介されていました。こういう作品をしっかりと形にしてゆくのは、さすがジャズにも精通したクラシカル・プロデューサーならではの仕事なのだと思います。
●Judith Sherman(11/16)
『Alone Together』 (Jennifer Koh)
『Bach & Beyond Part 3』 (Jennifer Koh)
『Bruits』 (Imani Winds)
『Eryilmaz: Dances Of The Yogurt Maker』 (Erberk Eryilmaz & Carpe Diem String Quartet)
『Fantasy - Oppens Plays Kaminsky』 (Ursula Oppens)
『Home (Blythe Gaissert)』
『Mendelssohn, Visconti & Golijov』 (Jasper String Quartet & Jupiter String Quartet)
『A Schubert Journey』 (Llŷr Williams)
『Vers Le Silence - William Bolcom & Frédéric Chopin』 (Ran Dank)
ジュディス・シャーマンさんは、とにかくカッコいいです。
1942年生まれの79歳。米国の現代音楽の歴史を語る上で欠かすことのできない、あらゆるものを見てきたエンジニア/プロデューサー。もう、その肩書きだけで、60年代のレコーディング・スタジオでテキパキと動き回る若き日の姿を想像してしまう。完全にミーハーな回路でシビれます。
ライヒ、カーター、アダムズ、コリリアーノ…つまり、近代米国の現代音楽シーンを作った大スターたちが長きにわたり絶大な信頼を寄せてきた、生粋のザ・プロフェッショナル。今や日本在住となられた巨匠テリー・ライリーの大作『サン・リングス』ではエンジニアとして、2019年(第62回)に最優秀録音アルバム賞(クラシカル)を受賞しています。
90年から昨年まで16度のグラミー賞ノミネート、そして5回のプロデューサー・オブ・ザ・イヤーを含む11回の受賞。打率6.8割!
女性のエンジニア・プロデューサーとしては、オール・ジャンルを見渡してもかなり先駆けのおひとりではないでしょうか。そのうちNetflixで伝記ドラマにしてほしい、とひそかに本気で思っています。
余談ですが、シャーマンより14歳上で、アーサー・ルービンシュタインが全幅の信頼を寄せていたことで知られる伝説のプロデューサーのマックス・ウィルコックス(故人)と結婚していたことも。そんなことを知ると、主演から元夫役、さらには、ふたりの間でイイ味を出すルービンシュタイン役(笑)…とか、キャスティングまで考えたくなります。
《その3》というわけで、次回に続きます
「そういえば、このアルバムも好きだったなー」「こんなアルバム出てたんだー」と、いろいろ思い出したり調べたりしながらメモっているうちに、気がつけばエンジニアとプロデューサーだけで1万7千字くらいになってしまいました。
日本にいると、米国クラシックのプロデューサーやエンジニアに注目する機会というのは少ないかもしれません。が、ポップ・ミュージックの世界でも、音楽シーンの流れに目をこらしてみると、プロデューサーやエンジニアの人脈だとか、もっと目をこらせばレコード会社のエグゼクティヴたちの動向とか、そういうものもけっこう大事な要素もなってくるわけで。クラシックの場合も、こうやってひとつのリストをじっくりと眺めてみると、自分が面白いなぁと思う作品のクレジットに共通する人物に気づいたり、いろいろと発見があって面白いものです。
いやー、それにしても、もともと今回は「クラシカル・カテゴリーを精査する」という記事を書くつもりだったんですよ。
が、実は、最優秀録音アルバムも、プロデューサー・オブ・ザ・イヤーも、厳密にはクラシカルのカテゴリーではなく、“クラシカル部門の外にあるカテゴリーの、クラシカルの人に与えられる賞”なんです。
賞の最後に「Classical/クラシカル」という言葉がついていることからわかるように、このふたつの賞は他に「ノン・クラシカル」部門もあるのです。というか、どう考えても断然もりあがっているのは、当然のことながら主要部門とも連動する「Non-Classical」部門のほうであり、今年も非クラシカルのプロデューサー・オブ・ザ・イヤーの座を争ってジャック・アントノフとかマイク・エリゾンドとか、大物たちが激しく火花を散らしているわけです。
てことは、だよ。
私、まだ本題に入っていなかったではありませんか。がーん。
「メモをとりながら、noteも書く」というズボラ方式で楽をしようと思ったら、長くなってしまいました。ばかばか、じぶんのばか。
最優秀オーケストラル・アルバムとか、最優秀オペラ録音とか、本題の“クラシカル”部門には次回に続く…とさせていただきたく思います。
ここまでで1万7千字。そこから本題…て、さすがに長すぎますよね。もし、ここまでご厚意で読んでくださった方がいらしたとしても、そんな親切な方を、さすがにこれ以上の長いグダグダで引き止めるわけにはまいりません。
なので、次回こそは本題に入ります。
呆れずおつきあいいただければ幸いです。
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