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千利休は家康のフィクサー

 千利休が徳川家康のスパイだったという説が残っています。それは千利休が徳川家康と内密に茶会を開いた事を知った後に、豊臣秀吉が千利休に切腹を命じた歴史的事実があるからなのです。
当時の茶会は情報交換や秘密会談の場所でもあった事から、千利休が現代で言うスパイ的な役割を担っていたことは間違いない事だと考えられるのです。
 そして千利休の切腹後には、京都一条橋の袂に千利休の木造が十字架にかけられて晒されたとの伝承が残っている事からも、家康のスパイだっただけでは無く、元々はイエズス会のスパイだったのかもしれません。
 いずれにせよ、千利休は豊臣秀吉にとっても良きアドバイザー役であった筈なのです。
豊臣秀吉が行った刀狩、徳川家光が武家諸法度に加え行った参勤交代、どちらも戦う前に主従関係を明確にして逆らえないように仕向ける制度とし、武器は没収、管理、また人質を抑えて、戦う為の財力も消耗させておき、戦う手段を無くしてしまう頭の良い作戦だったのです。
 現代に当てはめて言えば、核兵器の不拡散に関する条約になります。この条約では核軍縮を目的に、アメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国の5か国以外の核兵器の保有を禁止をしているので、刀狩りも同然なのです。
この条約は、もし抑止力の為に5ヶ国だけが核を持たなければならないと言う考え方に矛盾があると考えます。もし抑止力が必要なのであれば、国連軍だけが持つようにして、アメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国の5か国の核使用を放棄させるべきなのだと考えます。尤も、現在の国連軍が完全に中立で世界を纏める力が無いのでその立場を担うのが難しいのは、仕方がありません。
 徳川家光が行った参勤交代の制度は、武器では無く「蓄財」と「人質」に目をつけた頭の良い作戦だったのだと思います。
 将軍とその大事な妻を引き離し、かつ人質として江戸に確保するのですから一石二鳥の制度なのです。
 また、参勤交代は江戸までの距離が遠く、その分余計な時間と費用が掛かる外様大名により不利なのですが、これも一石二鳥の政策でした。とりわけ力の強かった薩摩藩へのダメージが大きくなり、幕府にとってはとても有利な政策でした。
 そして、少しでも不穏な動きが有れば、取り潰して幕府の直轄地としてしまう作戦なのですから、まさに、戦わずして幕府が外様大名に勝ち続けたのでした。
 武家諸法度は、もともと二代将軍の徳川秀忠が発布しましたが、その主な目的は、
1)新規築城、無断での城の補修の禁止。
 大名が力をつけたり、その力をアピールしたりする事を禁止。
2)幕府の許可なく、大名同士で勝手に政略結構してはいけない。
 3)「一国一城令」
1615年の6月に幕府は「一国一城令」を発しました。
これは「大名は城を1つしかもってはいけない」という命令でした。
戦国時代の大名はメインの城以外にも支配地域に多くの城を配置していたのですが、
「もはや平和な世の中になったのだから、そんな軍事的な城はいらない」ということで城は1つ残して後は全部壊されたのです。
武家諸法度では、新たに城を造ったり、幕府の許可を得ずに直すことも禁止となりました。
 幕府は、これにより大名の軍事力を削ぐ狙いがありました。
大名同士での結婚の禁止は、いわゆる政略結婚の禁止を意味しました。これは、幕府にとって大名同士が幕府の知らぬところで結婚などを通して連帯を強めるとやっかいになるので禁止したのです。
 将軍と大名とは1対1でなら主従関係がはっきりとわかりますが、大名が束になってしまうと 将軍の地位も危うくなるので大名同士の連帯を特に警戒したのだと考えます。
 千利休は、様々な有力者との交流を通じて、政治力と財力を手中に収めて、巧みに戦国の世を渡って来ましたが、最後には秀吉に切腹を命じられたことで、秀吉以外の黒幕がいたことが明らかになってしまいました。
 歴史の事実として最後に勝ったのは徳川家康であったことからも、家康こそが本能寺の変以前からの黒幕だったと言う答えが、自動的に炙り出されて来るのです。千利休は、城や領地よりも価値が高騰した茶器の名器扱いを武器にして、お宝好きの織田信長にも取り入り、妻側の三好一族を守る為の裏工作をした事が推測されるので、本能寺の変の原因を作った一人に入ると考えられますし、本能寺の変の際に堺で孤立していた、徳川家康を伊賀超えで逃すのにも、千利休の力添えがあったと考えられるのです。
家康に同行し、直接家康を助けた茶屋四郎次郎は千利休の弟子でもあったからなのです。

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