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日本の陰の支配者とは

 日本人は現代に至るまで、なぜ「漢字」を使い、中国から伝来した「仏教」を重んじ、「律令国家」であり、「科挙」的な試験制度を標準的に使っているのでしょうか。明らかに中国から強い影響を受けていることは間違いないのです。
 それは663年に日本が白村江の戦いに敗れた後に、唐からの強力な占領政策を受けた事と、その唐との関係を利用して日本を統一したい天武天皇の狙いがあったからなのだと私は考えます。
 日本が約4万人の水軍で百済を救援に行った「白江村の戦」で唐に惨敗してしまった事件については、教科書でも明らかな史実なのですが、なぜ唐に負けた日本が唐に支配される事も無く、無事で居られたのでしょうか。
 普通に考えたら有り得ない話であり、実際には日本は唐に占領支配されていたのだと考えるのが常識なのだと私は考えます。なぜならば、歴史上で敗北した国が無傷だった例を一度も見たことが無いからなのです。白村江の戦の翌年の664年に、郭務悰(カクムソウ)が旧百済領占領軍の鎮将劉仁願の命により百済人禰軍らとともに戦後処理の交渉のため来日し表函と献物を進めました。しかし朝廷は郭務悰を鎮将の私使と認めて大宰府で交渉させ,入京を許さなかったのだと説明されていることが不思議でたまりません。
 このころの天武天皇は、新羅進駐軍と伴に九州の大宰府に居たのではないでしょうか。
 665年には劉徳高とともに表函を携えて再び来日し,このときは入京を許されたのです。
669年にも来日し、671年百済人沙宅孫登らとともに総勢二千人で再来日しました。
そして672年天智天皇の死後,甲冑・弓矢,絁・布・綿を与えられて帰還したとされているのです。
以上の様に一般的には伝えられているのですが、戦後のGHQの占領政策と同様に、唐の占領軍は大宰府で新羅軍と伴に日本への占領政策を行っていたのだと私には解釈せざるを得ません。
 そして、最後まで抵抗していたのが天智天皇であったのだと私は解釈しています。
 おそらくこの時期に、大宰府に居たのが後の天武天皇だと考えると、その後の壬申の乱への展開も含めて辻褄が合うからなのです。
「大化の改新」や「乙巳の変」等の一連のクーデター騒ぎは、国内での事件では無く、唐、高句麗、百済、新羅、伽耶を巻き込んだ国際的な事件だったのでしょう。結果として唐と新羅の連合軍が全面勝利し、一旦は日本の一部をその支配下に入れていたと考えられるのです。
 日本が遣唐使や遣新羅使を頻繁に派遣しているという事は、唐や新羅に従っていた証拠だからなのです。
その後に新羅が唐に反発し、三韓を統一したと言うのが、本当の歴史の流れなのではないかと考えるのです。
従って、天武天皇と藤原不比等は本当の支配者である「唐」と「新羅」の存在を隠したかったのです。それと同時に、「宗教」「文化」「民族」等の古来からの日本伝統を守る為にも、隠さなければならない事が沢山あったのではないでしょうか。そして、カバラの奥義を使い、同族であろう蘇我氏や中臣鎌足や天智天皇を「悪者」に祭り上げる事で、天武天皇の正統性を誇示しようと考えたのだと解釈するのです。
 現代科学の発達により、発掘された副葬品や遺品からは、C14年代測定と呼ばれる放射性炭素年代測定によりかなり正確な、時代鑑定が出来るようになってきました。また人骨のDNA鑑定により、科学的なデータを得る事が出来るようになりました。
 ですから、そこで明らかになった科学的データに照らし合わせて、隠されていた事実を少しずつ浮き上がらせることができるようになって来たのです。
また、地名や人名、家系図、神社の名前、祭神、言い伝え、祭り、儀式などには、貴重なヒントや暗号が隠されているので、それらのなぞ解きをするのも楽しい歴史探究となるのです。古事記は日本だけでは無く、人類文明の歴史で有り、また藤原氏が隠蔽せねばならぬことも多かったので、それらを神話形式にして暗号のように隠し込む必要があったのだと考えるのです。
★1)平安時代までの古代の歴史は
1)縄文時代、2)弥生時代、3)古墳時代の3つに分けられます。
1)縄文時代は、1万3千年ぐらい前から1万年続いた、アイヌ人にも遺伝子的に近い縄文人とシュメールから渡来した橘氏などが日本に住んでいた時代なのです。
2)弥生時代は、稲作の技術を持って、葛城氏、物部氏(徐福)、秦氏などの渡来人が移住してきて、縄文人と混血しながら新しい文化が伝ってきた時代なのです。
また古墳時代は、歴史の教科書から抹殺されているも同然の時代なのです。
 古墳は天皇家のお墓とされて、誤魔化されて来てますが、もし本当に天皇家のお墓なら、日本全国に天皇のお墓が分散しているので、辻褄が合わない事になるのです。
 なぜ古墳時代に突然古墳が現れたのか、また副葬品に馬具や鎧や刀が出て来る理由の説明が全く出来ていません。本当は、大陸から騎馬民族が入って来て古墳を作らせた事実を認めなければならないのです。ただし、古墳は新田の大規模干拓の結果、余った残土を利用した、洪水や干水対策用の避難設備であり、干拓の規模を誇示するモニュメントであり、神道の祀祈場であり、豪族の墳墓としても利用された可能性が高いのです。
 弥生人がそうであったのですから、神武天皇、崇神天皇、応神天皇、継体天皇など、古墳時代の天皇は海外から日本に渡来してきた騎馬民族で有る事を認めなければならないのです。
そして、それらの真実を解明出来るたった一つの方法は、DNA鑑定だと考えています。
古墳や遺跡から出て来た、遺骨のDNAを分析する事で日本人のルーツや民族の移動等が正確かつ科学的に解明されてくる筈だからなのです。
 歴史の科学的解明にとって、DNA研究調査こそが重要な決め手となるのは間違いないのです。

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